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「あなたは食べて満足する」

 たくさんの人が、イエスを追いかけて来ました。
福音書は、群衆が集まった理由を、イエスがこれまでに病人たちに行ったしるしを見たからだ、と書いています。イエスは王に仕える役人から
「息子が死にかかっています、癒して下さい」という願いを聞いて
「あなたの息子は生きる」と宣言し、病を癒しました。
ベトザダの池のほとりで、寝たきりだった人に、彼が自分で歩き、
自分の寝ていた床をかついで歩けるよう癒しました。
福音書は、この癒しを奇跡とは呼ばず、しるし と呼びます。
死にかけていた人、生きる力を持てなかった人に、
イエスが、神の力による奇跡を行った。
生きてゆく力を与えるとき、神の力が働いた、そのしるしだと言います。
それを見た人々は、イエスは神から遣わされた人かもしれない、と思った。
自分たちを今の苦しみから助け出してくれる、待っていた助け手かもしれない。
ちょうど過ぎ越しの祭りが近づき、
ユダヤ人たちは、モーセが先祖たちを導いた歴史を思い返していました。
自分たちの先祖が、奴隷として苦しめられていたエジプトから助け出された時、
イスラエル人たちがモーセによって、荒れ野を通り、約束の地に導かれたように、
きっと、助け手が神から遣わされる。そう信じて、力強い指導者を待ち、
探していた。この人が約束の方なのかも?皆はそう 期待したのです。
神の力が確かに現れ、神が働かれたしるしが、そこに現れていたのです。
  イエスのもとに集まってきた人々。男たちは5千人、と書いてあります。
男性だけでも大変な人数です。聖書の時代、女性と子供は計算に入らないので、女性や子どもも合わせると1万人は居たのでは、と、言われています。
農業が主体の生活の中で、収穫の時期に季節労働者として雇われ働く人、
漁業者として実家に居たころのペテロたちのように舟を持って生計をたてる人、手に職をもち移動しながら、請け負った仕事をこなす人など
当時も働き方は多様です。
現代日本のような、朝から夕まで皆が働くという暮らしは、まだありません。
日の出から日没まで、毎日 仕事があるわけではない。仕事がない時間、
彼らは律法学者たちやファリサイ派の人々の話を聞いて過ごしました。
イエスも、彼らには神の国について話してくれる指導者たちの一人。
病人を癒し、力強く語るイエスを探す人々は、こんなに大勢になっていたのです。
 イエスは、ご自分を探してきた人々の貧しさに寄り添う方でした。
彼らが長い時間、自分と一緒に居て、空腹であることを哀れに思われた。
イエス自身、彼らと一緒に居て、食事をする間も無かったでしょう。
 5つのパンと2匹の魚。この奇跡は、そう呼ばれています。
これは、一人の少年がお弁当のように持参していたものでした。
干した魚とパンを弟子たちを通してイエスに渡した少年は、イエスに
食べていただこうと考えたのかもしれません。
山の草原に、人々は座りました。
他の福音書では、イエスは賛美の祈りを捧げた、と、書いてあります。
きょうの箇所では、イエスは感謝の祈りを捧げています。
祈り求めるものはすでに得られたと信じなさい。イエスはご自身の言葉の通り、これから起きることを感謝して祈っていたのです。
 人々は満腹しました。パンも魚も、人々は欲しいだけ、受け取りました。
5つのパンと2匹の魚は、1万人ほどの人々を満足させ、さらに余ったと書いてあります。余りは、12の籠をいっぱいにするほどにありました。
人々は実際に自分たちが食べて満足し、目の前に余りを入れた籠が並ぶ様を
見ました。明らかに、彼らの目の前で、今回も神の力が現れた。
人々は、神の力が自分たちに働いたことを、実感したのです。
彼らの満腹が証拠でした。
 人々はイエスこそ、自分たちを助け出す方だ、と、確信しました。
この方が王として自分たちを導いて下されば、もう、怖いことはない。
彼らは喜びました。イエスに王様になっていただけば、自分たちはもう、大丈夫。
病気になっても、癒していただける。空腹も、恐れることはない。
この方と一緒に居れば、自分たちは生きて行ける。
でも、それでは、彼らにとってイエスは王でしょうか。
彼らが苦しければ助け、癒し、食べたいときに食べるものをくれる。
王と言うよりまるで召し使い。目の前の必要を満たすための、
彼らに都合の良い人です。
イエスは、人々の心の中の願い、喜びの理由に気づいていました。
だから、彼らから離れ山に退かれた、というのは、
お一人で神に祈るために山に入って行かれたのです。
人としてこの世で生きておられたイエスは、神のご計画に従って生きる道を、
いつも保つために、お二人だけで、神とイエスだけで、
過ごす時間を持っておられたのです。
 きょうの旧約聖書の箇所は、申命記。
エジプトから導き出されたイスラエルの人々が、神にしたがってゆくために、
どう生きるべきかを確認させていただいているのです。
イスラエル人たちの苦しい旅が、神から彼らへの訓練であったように、
私たちが人生で経験するすべては、神から私たちへの訓練なのです。
訓練されることで、私たちは神しかない、他の何にも代えられない、
ということを、知って行く、認識して行くのです。
申命記8章のこの箇所で、4節は 特にすごい言葉だと思います。
人々は苦しみ、疲れ、神に叫びました。その苦しみの中で、
神は彼らの着ている服、歩き続けた足を、護っておられた。
荒れ野の旅の中で、自分たちの着ている服は古びることは無かったのだ、と、
彼らは気づいていたでしょうか。
日常の中で、私たちが気づいても気づかなくても、私たちを護られる方は
働き続けて下さっています。イスラエルの民は、約束の地にたどり着けず、
苦しい旅をしました。彼らはそれでも、歩き続けることができた。
生き続けることができた。人間には無理だと思える時にも、
主なる神はそこにいて、彼らの歩みを続けさせて下さったのです。
 イエスの話を聞くために、集まってきた大勢の群衆は、イエスの言葉でなく、
イエスが奇跡によって彼らに与えたパンを、病が癒され治ることを喜びました。
神が求めておられるのは、イエスから神の国の福音を聞いて、
イエスを信じ、神を信じる人々であって、イエスが行う奇跡によって
自分たちの飢えを満たそうとする人々ではありません。
集まる人々は、イエスを王として喜んでいるのではなく、自分たちに都合のいい、困った時だけの、僕のような助け手を望んでいたのです。
 ヨハネによる福音書6章で、イエスはこのあと、ご自分をパンに喩えて人々に語ります。命のパンであるイエスを食べ、イエスの血を飲む者に、
永遠の命が与えられる、と、イエスは教えました。
 イエスの十字架の死の持つ意味。イエスを十字架につけたのは誰か。
イエスを神から遣わされた救い主であると信じ、自分自身の罪の身代わりに、
イエスの十字架があるのだ、と、信じる時、私たちは一つの覚悟と自覚を与えられます。十字架の贖いを信じる時、私たちは信仰によってイエスという命のパンを貪り食い、自らの身に救いを受けるのです。
 日本人は、食事の前に「いただきます」という言葉を口にします。
これは、作ってくれた料理人への感謝だけではありません。
用意された食物が持っていた命を、私たちが自分の血となり肉となるものとして受け入れ、食し、その命を体に受け止める、そのための挨拶です。
 私たちは命のパンであるイエスを与えられています。
イエスの命をいただいて生きる。イエスを信じる者が一人も滅びないで、
神の子となるために、イエスは来られました。
霊の糧を与えるイエスは、ダビデの末裔であり 王の王。
神から遣わされた、神の民の王として、すべて神に造られたものを治める方です。
 パンくずは12の籠に一杯になりました。これは、聖書に秘められた
神のご計画を暗示しています。12という完全数で、私たちの必要が
完全に満たされる、という意味もあります。もう一つ、神の民イスラエル、
民族としての選ばれた民イスラエルは12部族です。
イスラエルの12部族と同じ数の籠に、命のパンを意味する、
イエスの感謝のパンが一杯になったのです。神から与えられた命のパンは、
彼らの民族を満たし一杯にして人々を満足させ、彼らは清くなるのです。
命のパンによって私たちの魂は満足し、主イエスは満たされた魂に、
聖霊によって住まわれます。
私たちに命のパンイエスは、私たちの中に聖霊によって満ちて下さいます。
私たちの日常を常に守っていて下さる方と、共に歩みましょう。
神の言葉によって満たされ、
共に居て下さる主を、喜ぶきょうを生きて行きましょう。
お祈りいたします。