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「主を試してはならない」

荒れ野での40日間の断食は、イエスの洗礼の後のことです。
イエスを誘惑したサタンは、断食で空腹になったイエスを狙いました。
旧約聖書出エジプト記で、イスラエルの人々は、神が海を二つに分けて現わした道を通り抜け、荒れ野の旅に入っていきました。イスラエルは、エジプト脱出し海の中を通って助け出された。イエスの洗礼と荒れ野でのサタンの誘惑は、
イスラエルの40年の旅をなぞって歩むイエスの生涯の始まりです。
二つに分かれた海は、旧約聖書の中に記された洗礼を象徴するものの一つと言われています。
エジプトから脱出したイスラエル人の共同体は、14章でようやく、
エジプト軍の追跡から逃れ、神を畏れ神と神の僕モーセを信じました。
イスラエル人たちは神の力でモーセと共にエジプトを脱出し、海の中を歩いて、
ここまで来ました。神の力による奇跡の数々を見て、イスラエル人たちは神に
感謝しました。彼らが歌う賛美は15章に「海の歌」として載っています。
イスラエル人共同体は、自分たちがエジプトのファラオの戦車からどのようにして逃れたか、神がどのようにして海の水を動かされたか、神と神の御業を誉め称え、自分たちの神がいかに大いなる力を持っているかを賛美しました。
荒れ野の40年間 神はイスラエルを捨てることはなく、信仰を与えられ、神の民として育てられ約束の地、カナンに導かれました。
 神はご自身と約束した彼らの先祖 アブラハム、イサク、ヤコブの神として、
先祖に約束した通りの土地を彼らに与えるため。
アブラハム、イサク、ヤコブが神を信じ、神に従ったように、
イスラエル人共同体が、神の民となるため、神がモーセを遣わしました。
 彼らは、食べるもの飲むものが不足するたび、苦しみにあうたび、
モーセに争いを仕掛け 不平を述べます。
出エジプト記12章によると、イスラエル人は壮年男子だけで60万人。
彼らの妻子と、いっしょに脱出した同行者たちを含めた民族が移動するのですから、食料を途中で調達することは困難です。今でいう難民の状態のイスラエルに、主なる神はマナを与え、肉を食べることができるように、うずらの群れが飛んで来るようにさせました。
マナも、うずらも大変な量です。彼らの宿営の周囲の地表を覆うほどでした。
何もない荒れ野で、それまで見たことも無い食料を与えられ、
飢えの不安から解放された彼らは、こんどは水が無い。のどが渇いた、と、
モーセに不平をぶつけます。15章で神を賛美した彼らは、16章で、飢えて叫びだし、17章では渇きにおそわれ希望を失い、彼らを助けた神とモーセに向かって自分たちは騙された。死ぬために荒れ野に連れ出され、捨てられた。
奴隷としてエジプトに居た時よりも、今の方が苦しい。
神なんて、いないのだと文句を言うのです。
我々を渇きで殺すために、エジプトから導き上ったのか?と 言うのです。
長い 出エジプトの旅の中、すぐに不平を言い、すぐに失望し、
すぐに神が遣わしたモーセと争うイスラエル。
イスラエルの人々がこの時、「果たして主は我々の間におられるのかどうか」と言ってモーセと争った、と書いてあります。
 ちょうど、空腹のあまり叫んだイスラエルに、神がマナを与えた時のように、サタンはイエスに、神の子ならば石をパンに変えてご自分の空腹を神の力で
解決せよと迫ります。イエスは神の子として、
神の力を体の欲を満たすために使うことはされませんでした。
創造の始めから、命を与えるのも、命を引き上げて終わらせるのも、
神のなさること。神の力です。
パンがあるか無いか。それは神が命を与えるかどうかには直接関係なく、
神が命を与えてはじめて、人は生きた者となるのです。
人はパンがあるから生きるのではない。神の言葉によって命が与えられ、
神が生かして下さる。荒れ野で、必要なだけマナを与えた神は、
身体の必要、生活の必要を知っていて下さる方です。
 次にサタンはイエスを高い所に連れて行き、神に助ける力が有るか無いかを、飛び降りることで試すよう迫ります。飛び降りて神が助ける力が有ることを見せることができるぞ。
このサタンの言い方、持って行き方は、きょうの旧約聖書の箇所と似ています。
「主は我々の間におられるのかどうか」イスラエル人たちは言いました。
神が居るのなら、我々は水を与えられる。
神が居るのなら、水を与えて見せろ。パンを与えて食べさせろ。
水を与えないのは、自分たちを殺すためだろう。
自分たちを荒れ野に連れてきたのは 捨てるためだろう。
自分たちを滅ぼすために導くモーセなど、石打にしてしまえ。
神が居られるなら、自分たちが苦しい目に会うことはないはず。
自分たちは苦しい。神が居たとしても、自分たちは神から捨てられている。
イスラエルの人々は不平を伸べました。自分たちの不安、自分たちの苦しみを
わかってほしい。知ってほしい。彼らの不安と欲求に、彼らの心が見えてきます。
信じていないのです。神が彼らを愛し、彼らのために心を砕き、
彼らを守り続けていることを、認めていないのです。
神は必ず与えて下さる。神は必ず助けて下さる。神は必ず共に居て下さる。
神は必ず守って下さる。神には与え、助け、共に居て守る力がある。
神はイスラエルと共に旅をして、彼らにご自身の力を見せ、
必ず行って下さる神の御業に期待し、信頼する訓練をされました。
 サタンの試みに、イエスは「あなたの神である主を試してはならない」と、
お答えになりました。飢えて渇いていて、いま、食べるものも水もないからこそ、
神を信じて、期待して、待つことが必要なのです。
いま、必要が満たされていない。いま、困っていて 苦しんでいる。
この状態に、天地万物を創造され、私たちを生かして下さる神が、私たちを置いて下さっている。不足した状態、苦しい状態を与えて下さっているから、
私たちは、神が必ず満たして下さり、困難や苦しみを取り除いて下さると信じて、
神の御業に期待して待つ。無いときにこそ信じることを、
神は私たちに与えようとしておられるのです。
イスラエルがエジプトで奴隷であった時にも、彼らの救済のために
モーセを育て、訓練していて下さったように、神は今も、働いていて下さると信じて待ち、待つ力を求め、祈りを聞いて下さることに信頼して感謝する。
神と私たちは信じ期待する力によって繋ぎ合わされているのです。
 サタンは最後に、イエスにこの世の富や権力、繁栄を見せ、
サタンを拝むならばすべて与える、と言って試みました。
この試みにはいくつかの問題が含まれています。
先程の、神に「与えろ」と要求すること。自分が欲しいものを手に入れるために、
手に入れる条件として拝む。どちらも、礼拝する対象を下に見ています。
日本の宗教には、こういう現象がよく、起きます。私たちの住む国には、多くの宗教があります。自分の必要なご利益を求め、自分の要求にあわせて礼拝する対象を選ぶ。子どもが生まれると神社にお参りし、クリスマスと結婚式はキリスト教、葬儀は仏教。人間の都合で宗教の用途を決め、日常生活では神について考えない。
触らぬ神に祟りなし。どの宗教に対しても深入りしない。宗教に凝らない。
それが賢い付き合い方であると考えられています。
 新約聖書の時代のローマのように、政治的なトップである皇帝が神の子であるとして、宗教の力で権力を集中させるやりかたは、聖書が禁じる偶像崇拝であることが
明確です。でも、神の力を人間の勝手で使おうとして、パンをくれるなら、
水をくれるなら、敵を滅ぼしてくれるなら、私たちはあなたを信じます、と言うのは、
神を自分の命令で動かそうとしています。神と人が逆転している。
アダム以来、人間が持ち、たびたび顔をのぞかせる罪。
人間が神になろう 神をも支配しようとする、傲慢の罪です。
 イエスは、幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできないと言いました。
イスラエルを神の民とするために助け出して以来、
神は人が神を信じて、幼子のように、疑うことなく神の愛を受け、神と共に安らぎ、
神を愛し信頼することを願っておられます。
「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」
 辛さ、苦しさを、神を疑うチャンスとせず、神は、苦しみの中にも共に居て休むことなく導いていて下さることを信じましょう。
求めるべきは、信じる力です。
いま 必要が満たされていない、不安である、困っていると嘆き続けるのではなく、
いつも守り導き満たして下さることを信じて、待つ力をいただいて 
条件を付けずに、期待しましょう。
お祈りいたします。