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「今は見える」

ヨハネによる福音書は目の見えなかった人が目を開かれた話、
列王記下6章は人間には見えなかった神の軍勢が、預言者エリシャと従者には見えた話です。
見える。見えないは、生きる上で自立できるかどうかを左右します。
人間世界は、基本的に いわゆる「健常者」と呼ばれる、見えて聞こえて、
話せて歩けて、自分で自分の行動を制御できる人を規準に動いています。
出来て当然とされることが できない場合、その人の個人の生活の自由は制限されます。これは現代も聖書の時代も同じ。
今は生活に多少の配慮が加えられている、それだけです。
この人は、目は見えませんでしたが、歩けて、聞えて、話すこともできました。
イエスはこの人のすぐそばで、弟子たちに、
この人の目が見えないのは「神の業がこの人に現れるため」だと話し、
泥をこねてこの人の目に塗りました。
「シロアムの池に行って洗いなさい」イエスがこの人に直接話したのは、
この言葉だけです。この人の手を引いて連れていくことも、案内するように弟子を付き添わせることもありません。この人は自分でシロアムの池に行き、塗られた泥を洗い落とし、目が見えるようになりました。この人は1人で行って、1人で帰ってきました。
この人がいつも、物乞いをしていた場所からシロアムの池へ。
彼をいつもの場所から連れ出したのは、近所の人や
物乞いをしていた彼を見ていた人達でした。
行った先は、ファリサイ派の人たちのところです。
不思議なこと、理解できないこと、納得がいかないことがあると、
人々はファリサイ派の人のところへ その問題や疑問を持ち込みました。
物乞いだった男の癒しの問題は、ファリサイ派のメンバー内に論争を引き起こしました。
この日は安息日。
「安息日を守らずに癒しの業を行うのは、神のもとから来た人ではない。」
「生まれつき目の見えない人を癒すような業は、神の力が働いたしるしだ。
罪ある人間にはできない。神から来た人でなくてはできない。」
その場所に同席していないイエスについて、目が見えるようになった人を
目の前に立たせたまま論争するファリサイ派を見て、
人々は彼に何度も問い続けます。
「いったい、お前はあの 自分を癒した人をどう思うのか」
「正直に言いなさい。わたしたちはあの者が罪ある人間だと知っているのだ」
「あの者はどうやってお前の目をあけたのか」
目が見えるようになった彼は、
「あの人は預言者です」と言い、
「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか?」と聞きました。
終始、一貫して目が見えるようになった彼が言ったただ一つのこと。
彼が知っていることは、「目の見えなかった私が、今は見えるということです」
彼の人生に、明らかに起きた、大事件です。
この事件によって彼は彼の目で、音声がなくても情報を得ることができ、
周囲の人に聞かなくてもできることが増えました。
最も大きな変化は、彼が障碍者では無くなったため、神殿でユダヤ人成人男性として
礼拝する権利を得た、ということでしょう。
彼には、いま、自分が見える、ということと、
見えるように癒してくれたのはイエスという人である、ということ。
そして、彼の認識では、その人は神から遣わされた方であるに違いない。
こんなに大きなしるしを行う力があるのだから、ということ。それで全部です。
 きょうの旧約聖書の箇所も、見える、見えないが話題になっています。
アラム軍は、イスラエルと戦っていました。アラム軍の軍議は戦いに優れた軍人たちによって、効果的な戦術を行っているはずでした。
けれども、彼らの計画はことごとくイスラエルに知られ、戦いは始めることさえできない状態にありました。アラム軍がイスラエルを偵察して得る情報より、イスラエルが得る情報の方が適切でした。アラム軍の情報は、筒抜けでした。
彼らはイスラエルと戦っていると思っていましたが、実際には
イスラエル人と戦ってはいなかったのです。
アラム軍が、それと知らずに戦っていた相手は、イスラエルの神。
天地万物を造り、治めている真の神でした。
神は預言者エリシャを通して イスラエルの王を指導し、
イスラエルは一戦も交えることなく、切り抜け続けていました。
アラムの王は、家臣から神と預言者エリシャについて聞きました。
怒り狂ったアラムの王が次にしたことは、イスラエルの王と神とをつなぐ、
預言者エリシャを、捕まえるための作戦でした。
 アラムの王は、神を見ることはなかった。イスラエルと戦い、人である預言者エリシャに怒り、アラムの軍事力に自信を持っていたのです。
アラム軍に囲まれた預言者の館の召使は いかに恐ろしい思いをしたことでしょう!
敵の軍に囲まれ、彼らが町を征圧していた。そして自分たちは軍人でさえ無く、
預言者は戦う武器を持ってはいないのです。
エリシャは「恐れてはならない」と言います。恐れる方が普通です。人間ならば。
エリシャには神からの目が与えられていました。エリシャが祈り、
召使が見たものは、むしろ 召使を恐れさせたのではないかと思います。
火の馬と戦車。山に満ちていた。ドタンは山間部の町です。盆地にある教会を、アラム軍が包囲し、盆地の周囲にある山脈に神の軍勢が満ち満ちている・・・という感じでしょうか。
人間の眼に 丸腰と見える預言者は、圧倒的な神の力を味方につけ、
信仰と祈りで闘いました。
このあとアラム軍は目を眩まされ、捕まえるつもりのエリシャによって、
イスラエルの中心サマリアに連れ込まれ、戦わずして完全に負を喫しました。
真の神の力で戦う者と、人だけ力だけで戦う者。本当に力があるのは誰か。
日常生活の中で、どうしても人の顔、世間の眼、世の中の常識を考えに入れてしまう時、私たちは本当に必要な力、求めるべき方向を、見失ってしまう危険があることを、
反省を込めて心に留めたいと思います。アラム王の考えは、今でも世間の常識です。
一般的な考え方なのです。なかなか、エリシャのように、その後ろ、その向こう側に
眼を向けることは難しいものです。包囲するアラム軍しか見えない召使いの動揺こそが、
実は私たちの敵なのかもしれません。動揺が私たちの信仰と祈りを止めてしまうのなら、
私たちはむしろ、目を閉じるべきかもしれません。眼からの情報を一旦、遮って、
神の御心を聴くために祈ることが必要なのです。本当に、見るべき気づくべきものを見る、霊的な視力を、エリシャのように祈り求めることは、恐れていてはできないのかも。
アラム王が持たなかった霊的な目を、求める信仰が欲しいものです。
 イエスによって目を開かれた彼は、彼の眼が見えない時に親しんでいた、
近所の人や知り合いから 追い出されてしまいました。
自分たちの常識に合わないものは、受け入れることは難しいのでしょう。
眼を開かれた彼は、ユダヤ人たちとの論争によって、
かえって、信じたい、という思いを与えられていました。
35節で彼はイエスに再会しますが、実は彼にとって、ほぼ初対面です。
眼を開かれたとき、彼はシロアムの池にいました。泥を塗られる前に聞いた、イエスの声を覚えていたかどうか。 イエスの言葉は、彼にも嬉しいものです。
「あなたは、もう、その人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」
「主よ、信じます」ピステュオ キュリエ  主と顔と顔を合わせて、彼は出会いました。
自分の眼を開いて、神の業を表した方の顔を見て、信仰を告白したのです。
 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、イエスに信仰を打ち明けた彼の喜びを共有できてはいませんでした。「我々も、見えないということか」頭のいい人ほど、
間違いを認められないものだ、と、言われます。私は知っている。私はわかる。当然だ。
自分の力、自分の経験を頼った時ほど、軌道修正は難しいものです。
「見えなかったのであれば、罪は無かったろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」イエスの言葉は、たいへん厳しいものです。
自分の見たものだけ、知っていることだけを頼る時、私たちは
アラム軍と同じ間違いを犯しかねない。 私たちが戻るべき、気付くべきは、
手放せない現実は何か、と言うことです。癒された彼が言ったように
「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
十字架によって私たちを救ったイエス・キリスト、私たちを永遠の命の道に
歩かせて下さる方を、私たちは神の力によって、見て、知っているのです。
お祈りいたします。