イエス・キリストは「わたしは天から降ってきた命のパンである」と言われました。わたしの肉を食べ、血を飲まなければ、あなた達の内に命はない、と。
私たちは教会で、月に1度、聖餐式を行ってパンと葡萄酒によって
イエスが制定された聖餐式と、その意味について毎月、確認しています。
命のパンであるイエスを食べ、血を飲む。
全く聖書を読んだことが無い人にとって、とても、気味の悪い表現でしょう。
宣教師によって日本に、キリスト教が伝えられた時、イエスの体と血についての教えが教会に来ていない人に伝わり、誤解された過去があります。
初めての外国人に驚いた日本人は、彼らがパンと葡萄酒を使う聖餐式を噂に聞き、飾られた幼子キリストとマリアの絵もイメージの元となり、
キリシタンは赤ちゃんの肉を食べ血を飲んでいる、という風評が立ったのです。もちろん、そんな儀式が行われていたわけではありません。
その噂が、キリシタン邪宗門と呼ばれる原因となりました。
きょうの新約聖書の箇所でも、イエスから話を聞いた人々は体と血という
表現にびっくりしました。
イエスは、「あなた方はこのことにつまづくのか」と言われました。
つまづかせるものと訳されている言葉は、罠と言う意味もあります。
スキャンダルと言う言葉は、この つまづきという意味のギリシア語から来ています。イエスがご自身を、命のパンであると言った言葉に驚いた人々は、
イエスに従って来ていた人々は、60節で、「実にひどい話だ」といって
つまづいてしまい、多くの人が去って、イエスと共に歩まなくなりました。
日本で、信仰を持たなかった人々から、キリスト教が誤解されたように、
信仰をもって聞くことができるか、できないか。イエスの言葉を、どう受け止めるかは、はっきりした分かれ道になります。
イエスのもとから離れなかった人の中には、ペトロのように、
イエスこそが永遠の命の言葉を持っていると気づいた人たちがいたのです。
人間を含む全てのものは、神によって存在し、神に命を与えられました。
創造した最初から、神は人を愛し、人に幼い子どもが親の手の中でやすらうように、疑うことのなく神の愛の中で生きることを神は求め 願ってこられました。
人間を神の愛から引き離すのは人間の罪です。
創世記に書かれた最初の人間が、この実を食べれば神のように賢くなる、
という言葉に惹かれたのは、神のように賢くなり、神のように、神そのものになりたい、と考えたからです。神が注いでいて下さる恵みも、愛も、必要としない者になりたいという考え方は、神を悲しませ、神を拒否し、神を否定するものでした。これが人間の罪です。
人間は、自分自身を造った方を否定し、神から与えられた命を否定することで、神の愛から離れてしまったのです。
命に至る道を、人間にもう一度、指し示すために、イエス・キリストは十字架に架かられました。神の愛から離れ、滅びの道を進んでいく人間を救うために、
十字架でキリストは死なれました。
イエスがご自分を命のパンと言われ、ご自身を食べることで永遠の命が得られると言われたのは、私たち人間が、神の愛を受けとれる存在に戻るためです。
6章の始めのパンと魚の奇跡で、イエスに従った人々が望んだような、日常の飢えを満たすためのパンではありません。
十字架で流された犠牲の血が、自分自身のためであると信じ、信仰を告白することは、イエスの肉を食べ、血を飲むことです。
十字架による救いを受入れるということは、永遠の命に至る神の言葉を受入れる、霊的な食事です。
私たちを罪から救うために、十字架の主の犠牲が必要である、ということは、
私たちの罪は、十字架でイエス・キリストを死に至らせるほどに大きな、重いものなのです。神の子を十字架につけるほど大きな罪によって、私たちは神の愛から引き離されている。私たちに神が注ぎたい、与えたいと願っていて下さる、
愛と恵みを得るために、十字架が必要だった。イエス・キリストの御身体が引き裂かれ、血が流れる必要があった。
イエスという命のパンを食べ、噛み砕き、私たちの命として受け、私たちの中にイエス・キリストの命を戴く、その欲求を、神は私たちに求められます。
命のパンを求めることなく、去って行った人々は、命と共に消えてゆく肉の命にしか、必要も欲求も、持つ事が無かったのです。
イエスの言葉から、命を与える霊の言葉を聞き取る力が、彼らには与えられていなかったのです。
イエスがご自身を天から降ってきた命のパンであると言われ、
ご自身を食べなければその人に命がないと言われても、ペトロをはじめ
12人の弟子たちは他の弟子たちのように離れてゆく事はありませんでした。
ユダヤ人たちのように、天から降ってきた、という言葉につぶやくこともありませんでした。
彼らはイエスに選ばれた人たちです。イエスと共にいてイエスこそが
神から遣わされた方だと 信じる信仰を持っていた彼らには、イエスの言葉はつまづきにはなりませんでした。
イエスの言葉を受入れるか、つまづくか、そこに信仰が深い意味を持ちます。
ペトロが言ったように、
イエス・キリストを離れて、主よ、わたしたちは誰の所へ行きましょう。
永遠の命の言葉を持っているのは、あなたです、と 告白する信仰によって、
わたしたちは神に近づく、たった一つの道への歩みを始めるのです。
この道を進まなければ、神の国に至ることはありません。
信仰を告白することも、歩みを進めることも、どちらも命のパンを求める魂の
飢え渇きと同じ、神に向かって行く私たち自身の願いであり、望みなのです。
きょうの旧約聖書は、イスラエルの指導者として
モーセの跡を継いだヨシュアが、民と共に行った、信仰の契約の箇所です。
ヨシュアは死を目前にして、イスラエルの人々に、主なる神は約束された良いことをすべて行われたことを確認させ、もし、主ではない他の神々を礼拝するなら、主はあなたたちに与えたこの土地で、あなたたちを滅ぼされる、と、告げました。
イスラエルの人々を集めて、あなたたちが仕える神を選べ、と迫ったのです。
特にヨシュア記24章15節の後半は有名です。
「わたしとわたしの家は主に仕えます」
若い、戦う指導者であった彼が、高齢になり死を目前にしても、イスラエルの民はその信仰において揺れ続けていました。
この後29節にはヨシュアの死が書かれていますが、そのあと、
「長老たちの存命中、イスラエルは主に仕えた」と書いてあります。
わざわざ、書いてあるということが、現実を物語ります。
ヨシュアと共にイスラエルを指導した人々がいなくなると、民はまた
ヨシュアから確認された時のように揺れ、このあと士師記に入ってもたびたび、
民には試練の時が続きます。
周囲の国がどんな宗教を持っていても、イスラエルがどんなに信仰を固めることができなくても、ヨシュアとその一家のように、はっきりと真の神を選び、
真の神への信仰を告白して、従ってゆく者でありたいものです。
ペトロは12弟子を代表して、イエスに従って行くとはっきり告白しました。共に居た12人は、イエスの語る神の国の福音を、最初から聞いていた仲間でした。しかし、イエスが言われたように、この12人の中で十字架の贖いを受けることの無かった人がいました。彼の道はこのあと、イエスからも神からも逸れてしまいました。イスカリオテのユダが、なぜ、主イエスを裏切ったのか
説明できる人は今もいません。言えることはただ一つ。イエスのすぐそばにいて、
イエスに選ばれ呼ばれて仲間に加わった人物であっても、この道を逸れ、
滅びに向かって行ってしまうことはある、ということです。
イエスの復活の後、イエスを信じた人々はイエスの約束を信じて祈り続け、
やがて彼らに聖霊が降りました。
ご自身の聖なる霊によって、主イエスは彼らの中に住まわれました。
永遠の命の言葉を持つイエスから離れることの無かった人たちは、
聖霊によって生き、聖霊によって用いられる者となりました。
命のパンを、魂の飢えを満たす命の糧として選び取り、受けた人々は、
神の国に至る、永遠に生きる命の言葉を宿すものとされました。
私たちの救い主イエス・キリスト。この方を離れて、どこにいきましょう。
永遠の命の言葉を持つ方を、魂の飢え渇きをもって求めてまいりましょう。
お祈りいたします。
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