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「わたしのいるところに」

 イエスはエルサレムに入られました。聖書では受難週の箇所に入っています。
ヨハネによる福音書は、神学的な要素の強い文章で、話の内容が飛躍して感じることが多い書き方です。
きょうの箇所から16章までは、イエスの決別説教として語られた言葉が続いています。決別、とは遺言、などともいわれる、死を目前にした人が語るお別れの言葉です。17章にはイエスの感謝祈祷があり、18章では裏切られ逮捕される箇所が続きます。
 決別というと、悲しいようですが、きょうの箇所に書かれているのは熱烈な
ラブレターで、プロポーズで、招待状です。
誰が誰に、プロポーズし招待しているのか。イエスが私たち人間に対して下さっている愛の言葉です。読み直してみましょう。
 イエスは人の子が栄光を受ける時が来た、と、言われました。
人の子、とは救い主を現わす言葉で、イエスご自身を指して言われています。
栄光 とは、神が神のご性質を私たち人間に示された時、私たちが見るもの。
栄光を現わす、とは、神が神の業を行う、ということ。イエスが、神の子として神の業を、神の御心を行う時が来た、と、言っておられます。ああ!マワリクドイ!
 そして、一粒の麦に喩えて話されます。
今、生きている私たちの命は、やがて終わりの時がきて、失われるものです。
年を取る自分自身を認めたくない、老いて行く弱って行く自分を、少しでも長く今のままに保ちたいと考えるのは人の常でしょう。
イエスの言われる、この世で命を憎む、とは、いま生きている命よりも、もっと大切な、求めるべきものに目を向けることを言います。
与えられた命を見るのではなく、与えて下さった方を見る。
命を与えて下さった方は、時間に左右されない、天地万物を造った神です。
神に目を向け、命の神と繋がることで、私たちの命は永遠という神の時に繋がるのです。イエスは私たちを永遠の時に繋ぐためにこの世に来られた。
ご自分が一粒の麦として死ぬ、この決意を現わされたのです。
 この決意を表されたイエスが続いて言われました。
わたしに仕えるならばわたしに従え。そうすれば、その人はわたしのいる所に
一緒に居ることになる。その人を、わたしの父なる神も大切にして下さる。
これこそ、プロポーズです。
仕える、ということは、仕える相手のいる所に居なければできません。
イエスに従う とは、 イエスの後について行動し、イエスにさからわず、
イエスの言葉を聞き、イエスに言われたことを守り、イエスによって、イエスの行動に伴って行動する、ということです。もし、これが、人間同士で、仕える人に仕えさせる人が強制的に行うのなら、こんなブラックな関係は無いでしょう。
しかしイエスは、ご自分を一粒の麦に喩えて、自分は命を捨てる、と、
決意を示されました。さらにこのあとの箇所で、イエスが父なる神に、
栄光を現わして下さい。神よあなたが行動を起こして下さい、と、仰いました。
イエスに仕える人が、イエスと共にいる。父なる神が自分に仕える人を、父なる神が大切にして下さる、と言われた、そのあとで言われたのです。
 この時、周りでイエスの言葉を聞いていた人々は、天からの声を聞いて驚きました。「わたしは既に栄光を現わした。再び栄光を現わそう」この声について、イエスはあなたがたのためだ、と言われました。神が、イエスの言葉に応えて、人間の言葉で、ご自分がご自分の行動を起こされることを宣言して下さったのです。神のご計画、神のお考えが実現される時が来ていました。
その時をイエスは、この世が裁かれる時、この世の支配者が追放される時、と
言われました。この世の支配者、とは、サタンのことです。
 きょうの旧約聖書の箇所は、さきほどイエスが言われたこの世の裁きについて、書かれています。イザヤ書63章は1節から6節は神ご自身が語る言葉として書かれています。
神が定めた報復 つまり仕返し、復讐の時。神がご自分の造り上げた世界を、
神の御心から引き離したサタンに、復讐される時。
人間が神から離れ、罪を犯した、つまり自分自身を、神からサタンに売り渡した、
この、サタンの奴隷になっていた人間を
神が買い戻す:贖う、その時が来た、と、宣言されています。
神による復讐、神による贖いを行う中で、神によって裁かれる者を助ける者は
いないのです。神によって、諸国の民、人類は踏みにじられ、裁かれる者は
神の憤りによって翻弄され、裁かれる者の血は、大地に流れるのです。
 人類は神の怒りを受け、神によって踏みにじられ、神の憤りに翻弄され、
人類の血は神によって地に流れたのでしょうか?
もし、人類が裁きに会ったのならば、人類はすでに滅び、失われているはずです。
では、誰が、神の憤りを受け、その血を流したのか。
イザヤは7節以降で正しい義の神の、愛の神としての御業を書いています。
主は慈しみと恵みによって、私たち人類をご自分の民と呼び、ご自分の子と呼び、
自ら私たちの救い主となられました。
私たちの苦難、私たちが受けるべき神の怒りと憤りと、裁きによる滅び。
救い主は身代わりとなって下さったので、ご自身が助けられることはなく、
その身にすべて、代わりに担って下さったのです。
 イザヤ書に預言された救い主の業を、イエスはご自身の死に様として語られました。イエスが地上から上げられ、十字架につけられる。
十字架によって、この世とこの世の支配者は滅ぼされ、人類は罪から贖われ、
罪から回復され、イエスのもとに引き寄せられるのです。
 イエスは人々が罪から贖い出され、回復された。そのことだけを伝えて終わりにはなさいません。救われた私たちが、再び暗闇に追いつかれることが無いよう、光のあるうちに歩きなさいと言われます。
神は命を与え、すべてを創られた方。すべてのものの始めに、光を造られましたが、この光は神ご自身を現わすものです。
きょうの箇所の中で、イエスはご自身をいくつかの言葉で表現されています。
人の子、一粒の麦、そして光。
私たちはこの世の命に一生懸命になり、死を恐れる者です。
こんな私たちに、死を乗り越えた永遠の命を示して下さる、救い主が、
光として私たちを導いて下さるのです。
救われた私たちを、神はイエスと共に、神の子とし、神の家族に加えて下さいます。光である方が、ご自身の家族として私たちを招き、導き、迎え入れて下さる。
滅びに向かう私たちを、命がけで、魂までも滅びに引き渡して救い出して下さる方が言われるのです。
わたしに仕えようとする者、
私の側にいてわたしの働きをし、わたしを愛してわたしのために働く者は、
わたしに従え。
わたしについてきなさい。わたしの言葉を聞きなさい。わたしの言うことを守り、わたしにすべてを委ね、私と共に行動しなさい。
わたしたちを、神の国に迎える究極のプロポーズです。
この招きに従う時、私たちは神の家族となり、光の子となります。
そして、私たちに与えられるキリストの光によって、
主はこの世の暗闇を照らすようにと、私たちを遣わすのです。
 黙示録に書かれたこの世の終わりは、再びこの世に来られるイエス・キリストと、新しいエルサレムとして整えられる教会の結婚のイメージで現わされます。
永遠の神の都には、夜が無いそうです。
永遠と言う、時間のない神の国には太陽も星もないかわりに、
神ご自身が光として輝き、その光の内で救われた者たちは悲しみからも苦しみからも解放されるのです。
 イエスが決別説教で語られた光は、やがて完成する完全な救いと癒しの結果として、神が実現して下さる神の国を象徴するものです。
イエスに仕え、イエスに従う私たちは、光の主に従う光の子とされ、
暗闇から救い出されました。
 生きている限り、私たちの周りには暗闇はあります。
光を浴びれば、この世では必ず、その後ろに暗い影ができます。
私たちの心に、不安の闇を呼び込む力は、私たちの周りに、今も働いています。
光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。
そう言われる私たちの救い主は、光そのものです。
私たちのいる所は、闇が存在するところなのです。だからつねに、
光が必要なのです。光のある所、救い主のそばが、私たちの居場所なのです。
光の中に出て、自分の中の暗闇を恐れる前に、私たちを、すべてをかけて
贖い出してくださった救いの光を信じて、
進むべき道を、光の中に見て、歩いてまいりましょう。
お祈りいたします。