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「主は引き渡された」

 イエスが大祭司カイアファの屋敷から、ユダヤ地方総督ポンテオ・ピラトの
官邸に送致されたのは「明け方であった」と書いてあります。
明け方。どんな悪い夢を見ても、終わりが来る時間。朝が来て、目が覚めれば怖い夢は終わります。けれど、
イエスにとっては受難の最後の時を目の前にした時でした。
13章30節、最後の晩餐の席上でイエスがユダの裏切りを予告し、ユダが出て行った記事には「夜であった」とあります。
この一晩を過ぎた時、イエスも弟子たちも、周囲の状況は全く変わっていました。
 この夜、ユダが大祭司の所へ出て行き、イエスと11人が過ぎ越しの晩餐を行い、イエスの決別説教と祈りのあと、彼らは祈るためにゲッセマネの園へ行きました。
イエスはゲッセマネで血の汗を流すほどの祈りをした後、裏切られ逮捕されます。大祭司たちから取調べを受けていた時、イエスを追って行ったペトロは、大祭司の家の庭でイエスを「知らない」と3回言い、明け方の鶏の鳴く声を聞いたのです。
イエスの身柄が総督に送られるまでに、すべての人が神とイエスに対して、
どのような立場、存在であるかがハッキリしました。イエスがピラトのもとで死刑判決をうけたこの朝、イエスの周りに居た弟子たちは裏切り、逃げ出した者となりました。全人類の罪を贖うために神から遣わされた神の小羊であるイエスは、
大祭司によって、十字架への道に引き渡されました。大祭司の本来の役割は、
民の行動を律法に従って罪があるかどうかを判断し、神殿で、罪ある民が捧げる、贖いのための牛や羊の犠牲を神に捧げ、民の犯した罪の赦しを神に祈る務めです。イエスを裁判にかけ、有罪であると判決を下す。そして大祭司はイエスの罪を神に祈るのではなく、イエスを死刑にするために、ローマ総督に引き渡しました。
ユダヤは当時、ローマ帝国の支配下にあり、ユダヤ人だけの裁判で、死刑に定めることはできませんでした。十字架刑は最も残酷な極刑で、ローマ人やローマの
市民権を持っている人間は十字架刑に処されることは無かったのです。
十字架に架かった、と、いうことは、ユダヤ人が当時、差別を受けている民族だったことも意味します。十字架という、差別の中でも最も人権を認められていない
人間にだけ行われる極刑を受けたのです。神の子は人間となり、低きに降られた。それは、貧しい家に生まれた、ということだけではありませんでした。その死の時まで、十字架という最も低い立場の人間に加えられる残酷な方法で処刑されることで、すべての人の中でも最も低い所、低い立場にまで、主なる神の子は降って下さった。最も低い立場で、主イエスは犠牲の死を遂げられたのです。
 「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません。」
大祭司の部下たちは、ピラトにこう言って、イエスを引き渡しました。
ユダヤ人にとっては、律法を守らない汚れた人間であると思っている異邦の
ローマ人によらなくては、自分たちの信仰上の罪人を死刑にすることができない。これは納得のいかない事だったろうと思います。彼らがイエスの死ぬべき罪と、
考えたのは、自分自身を神の子だと言った、神を冒涜した罪があると判断したからでした。ユダヤ人たちの不満を、ピラトは罪状書きによってさらに増幅させました。
イエスが架かった十字架に掲げられたイエスの罪状書きには、
「ユダヤ人の王」と書いてあったのです。
大祭司はこうして、イエスを十字架に架けるべくピラトに引き渡したことで、
神から与えられた大祭司の役割を果たしました。
ユダヤ人たちが祝う、イスラエルの奴隷からの解放を祝う過ぎ越しの祭りの日には、いつもユダヤ総督の権限で恩赦が行なわれました。死刑が確定している犯罪者を  
民の申し出を受けて特別に赦し、解放するのです。恩赦の対象は、強盗バラバか、ユダヤ人の王イエスか。「十字架につけよ」と民が叫んだのはバラバではなく、
イエスでした。バラバは、イエスを身代わりにして死刑をまぬかれました。
イエスの十字架によって全人類の罪が赦される時、その赦しの対象にバラバも
含まれていたのです。そして、ユダヤ人の王イエスを裁く者となったピラト、
全世界のイエスを信じる人々によって、信仰告白のたびに名を呼ばれる、
主イエスを苦しめた者として記憶される存在となりました。
イエスを信じたなら、ピラトも救われたはずです。
 きょうの旧約聖書の箇所は、アブラハムが神からたった一人の後継ぎ息子
イサクを、捧げものとするよう命じられ、モリヤの地に行くところです。
神を信じる人々から、信仰の父と呼ばれるアブラハムは、息子イサクを捧げなさい、という神からの命令を受けたて山に向かう時、同行した若者に、
「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝して、また戻ってくる」と言いました。
結果から言えば、アブラハムの若者たちへの指示と約束は果たされました。
アブラハムとイサクは神への礼拝を済ませ、戻って来ました。
若者たちが待っている間に、アブラハムは黙々と祭壇を築き、イサクは縛られ自分が背負ってきた薪の上に載せられ、父は子を殺す覚悟を、子は父に殺される覚悟を、受け入れた時があったのです。イサクは、信仰と服従によって再び命を与えられた、と考えられます。主の山に備えられていたのは、死から命へと回復して下さる神の愛と恵みです。旧約聖書に書かれたモリヤの山は、現在のエルサレム市内。
エルサレムにある有名な岩のドームと呼ばれるモスクがあるところです。
モリヤの山で、神はアブラハムの信仰に応えてイサクを救いました。
その場所は以前、ユダヤの神殿のあったところ。ここでイエスは裁かれ、
エルサレムの郊外 ゴルゴタで十字架に架かりました。
 アブラハムが信仰によって息子を生かして返していただいた主の山で、
父なる神は独り子イエスが人類の贖いのために十字架に架かることを定めました。
ピラトの質問に、イエスを大祭司の館から連行した人々は答えています。
「どういう罪でこの男を訴えるのか。」
   「あなたに引き渡す、ということは、この男が有罪だということです。」
「あなたたちの律法で裁け」
   「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません。」
イエスの十字架によって、私たちの罪は赦された。
大祭司はローマ帝国の支配下で死刑を決める権限を持っていませんでしたが、
私たち人間も、善い悪いを判断する基準を、自分自身の中には持っていません。
私たちにできるのは、私たち自身が罪あるものであることを認めること。
それだけです。
罪があること、何が善いもので、何が悪いものであるか、決める権限を持っておられるのは神、お一人です。すべての基準は、神にあります。
神が善いかた正しい方であることが、すべての基準です。
人間は罪を犯したので、神の栄光、神の御業を行う力を持たない者となりました。人間が善いもの神に喜ばれるものを知るためには、
神からの力を受ける必要があります。
ピラトはイエスに「真理とは何か」と言いました。ピラトはイエスが、
自分は真理について証しするために来たと言うのを聞いてつぶやいたのです。
 真に権威ある方、すべての基準である、変わることの無い方に近づくことは、
罪があってはできません。神が私たちを罪ある状態から回復し、罪の中から
助け出すために、イエスを遣わされました。
 受難週、イエスの周りにいた人々は、イエスを信じられず裏切ることでイエスを十字架に近づけ、イエスを神の子と認めず信じないことで有罪とし、死刑になる者として引き渡しました。
私たちの罪の身代わりになる方は、人々の不信仰の罪のために引き渡されました。
イエスは神から遣わされた者であることを信じられない者によって、引き渡されました。

イエスは神の子であることを信じない者たちによって、
神を冒涜したと決め付けられ、引き渡されました。
イエスは真理を証しするために来られ、真理を知ろうとしない者によって、
死に定められました。
イエスは、自分たちの罪を知らず、神から離れてゆく人間を赦し呼び戻すために、身代わりとして十字架にかかりました。
すべて、私たちです。クリスチャンですと言いながら、
信じきれない、神であると認めきれない、真理よりも人の眼、他人の言葉のほうが気になる。大祭司も弟子たちもピラトもバラバも、私たちです。同じ人間なのです。
 十字架で、イエスが言われたのは、「成し遂げられた」という言葉です。
神から遣わされた神の子は、真理を証しするために、身代わりとなり、
十字架に架かり、その贖いの業、赦しの業を成し遂げて、死なれました。
イエスは、私たちを罪から贖い出すために、その命を懸け、救って下さいました。
私たちの罪は、完全に引き渡され滅ぼされ、すべて解決しました。
 受難週は神の愛によって私たちの救いが完成された時です。
心から感謝し、喜ぶとともに、この救いが全世界で完成される日を心から願い
 お祈りいたします。