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「あなたは連れて行かれる」

 主イエスはペトロに3度、「わたしを愛しているか」と聞きました。
イエスが復活された後、ペトロと1対1で話したのはこの時が初めてだったと
思われます。ペトロには十字架刑の直前に、イエスを裏切った記憶がありました。「鶏が鳴くまでに、3度、私を知らないと言う」とイエスに予告された通り、
ペトロは恐れに負けてイエスの仲間ではないと強く否定したのです。
ルカによる福音書には、主を否定したペトロをイエスが振り返り、見つめたと書いてあります。主を裏切って否定したペトロとイエスの関係を回復するため、主は
3度、「愛しているか」と問われたと言われます。問うと同時に、主はペトロに
つとめを与えられました。 わたしの小羊を飼いなさい。わたしの羊の世話をしなさい。わたしの羊を飼いなさい。ペトロに与えられたのは、羊を飼い養い
世話をするつとめ、つまり羊を牧会するつとめが与えられました。
 さらにイエスは、ペトロに将来の恐ろしい予告をしています。
ペトロには手足の自由が奪われ、目的地も居場所も自分の自由にはならない老後が
やってくる。若い時には自分の行きたいところへ行った。しかし、年を取ったら、若い時のようには行動できない。これは、年を取ると体は衰えるよ。若い時と違って、あなたは介護されるようになるよ、ということではありません。
イエスが言われたのは、
「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れてゆかれる」
この言葉はペトロの死に方を示される言葉だった、と、ヨハネは書いています。
両手を伸ばす。皆さん、ご自分の両手を伸ばしてみてください。
その手が、左右に広げられた時、私たちはある形になります。
両手を伸ばす、は、十字架刑を暗示する言葉です。
また、帯を締めて行く。という言葉があります。
帯は腹に巻くもの。腹という日本語には、腹づもり。腹を読む。など、その人の考え方の基礎がどこにあるかを表す表現があります。これと似たもので、
エフェソの信徒への手紙6章に、神の武具を身につけよとして書かれた帯が出てきます。腰に真理の帯を締める。私たちは腰、日本語表現で言う腹に、
主の福音の確かさ、御言葉の真実さを帯として持って、福音宣教の働きをするよう、言われているのです。この帯を、自分で巻く とは、自分自身で探り当てた真理を自分の基礎として持って、活動する、ということがあります。それに対して、
他人に帯を締められるとは、自分の意に沿わぬ福音理解、自分の信仰とは違う
御言葉の解釈が突き付けられる事態が起こる、ということです。信仰についての、言論統制。聖書を読むこと、神を賛美することを禁じられる時代がくる。
信仰を持つ者の苦しみの時代を予告しているのです。
日本でも、迫害の時代、戦争の時代がありました。聖書の福音を語ることで、
命が危険にさらされることはあります。実際、現在の日本でも、宗教への逆風は
あります。私たちの真理が、暴力を受ける。
その恐れは福音宣教の持つ、もう一つの側面です。福音を規制されるだけでなく、さらに望まぬところに連れて行かれる。どのような死に方で神の栄光を現わすか。人は、生きてきたように死ぬ、と言われます。死に方を示されることは、
生き方を問われることです。
ペトロの晩年は、ローマ帝国で最も迫害の激しかった時代です。
あなたは私を愛しているか?
主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、
あなたはよく知っておられます。
他の誰が、聖書をどう読もうと、世の中のシステムがどう変わろうと、
問われていることは、ただ一つです。あなたはわたしを愛しているか。
主イエスを愛すること 主イエスに従うことは命がけです。
主は命がけで贖われた。だから、私たちも命がけで従うのです。
自分の意見、自分の考え方が人間にどう理解されるか、ではないのです。
あなたは私を愛しているか。 自分の信仰を模索する私たちに、主は、
わたしに従いなさい と、言われるのです。
きょうの旧約聖書イザヤ60章は、新しい都シオン、エルサレムへの言葉です。
私たち神を信じ神の民とされた者の群れを、イエスは教会と呼ばれます。
この信仰者の群れである教会は、世の終わりに新しい都エルサレムとして整えられるのです。信仰者の群れである教会が、建物や場所を意味するものではないように、
新しいエルサレムも、地球上のイスラエルという国の都市のことではありません。
主の栄光の日、主の救いが地上に完全に実現される日、主イエスが再び来られるその日、新しいエルサレムとして整えられた信仰者の群れは、その信仰によって輝きを与えられる。主が与えるその輝きによって、すべての民が主の栄光を見るのです。主の民として、神の国に国籍を持つ者とされた私たちは、新しい選ばれた民
イスラエルとして、主の前に集められるのです。
ヨハネの黙示録の終わりに、新しいエルサレムは花嫁として、花婿主イエスを迎えるイメージで語られます。世の終わりに、主イエスが再び来られる日の喜びを、
ヨハネは黙示録で、主イエスと教会の結婚式として描き、輝かしい喜びの日として表現します。この喜びの日をイザヤは、新しい都に集められる神の家族、
息子たちが娘たちが全世界から集めらる様子として描きます。
ミディアン、エファ、シェバは、現代で言うアラブなどアジアの民族のイメージ。
ケダルとネバヨトは現代で言うアフリカ方面の人々のイメージ、タルシシュは地名としては現代のスペインあたりですが、当時の世界観で言う地の果ての人々のイメージです。書かれたどの民族も、イスラエルの歴史の中では敵であり、
荒らすものに酌むべき者たちでしたが、彼らはらくだに贈り物を積み、
主を賛美し礼拝するために集まります。
シェバは、イエスが誕生した時、やってきた東の博士たちの国ですが、
イザヤ書では黄金と乳香のみで没薬が書かれていません。
黄金は王である主を表し、乳香は福音の広がりを示す香りです。没薬は癒しの他に、
死者の葬りに使われます。博士たちの贈り物の中で主の死を暗示するものです。
世の終わりに、主イエスは再び来られますが、主はすでに復活し死を乗り越えられた方です。死を暗示する没薬は、ここでは書かれません。
世界中の、全ての民族がエルサレムに集められ、聖なる神の御名のために集い、
主の栄光を現わす光を放つ。素晴らしい来るべき世界のイメージです。
ペトロは、迫害の時代の初期に殉教の死を遂げた、という伝説があります。
小説クオヴァディスに書かれた、ローマの大火。都市全体が、火の海になった火災の原因がクリスチャンたちにあるという偽証によって、大迫害は起こりました。
クリスチャンは人々の見ている前で、大人も子どもも老人も、猛獣の餌食となり、十字架に縛り付けられて火に焼かれました。
この時、一度はローマを脱出したペトロは、自分たちとすれ違いに、
ローマに向かう復活のキリストの姿を見たのです。
クオ・ヴァディス・ドミネ?主よ どこに行かれます? そう問うペトロに、
お前がローマを捨てるのなら、私がローマに行き、もう一度十字架に架かろう。
と、イエスが答えたと伝説は語ります。その言葉を聞いたペトロはローマに戻り、
逆さ十字架に架けられて殉教しました。
主イエスがヨハネによる福音書でペトロに言われたのは、「わたしに従いなさい」。
クリスチャンの生涯は、全ての事がうまくゆく幸せで豊かなもの ではありません。
人生の選択肢に、つねに主イエスの十字架の光が当たり、好き嫌い、
できる できない、やりたい やりたくない、ではなく、
どちらを選ぶことが主の前に良いことか、どちらを選ぶのか。
全ての事で、私たちは究極の選択を迫られます。
どちらを選ぶことも、私たちは赦されています。主を信じて進むならば、
主は必要な知恵も力も、与えて下さいます。
 今も、私たちは半年前には想像もしていなかった生活をしています。
半年前には日常の、普通の行動だったことで、私たちは
自分や他の人の命をどう考えているのかを問われる事態となっています。
私たちがどう生きても、主はご計画を行われます。主が、私たちをどこに連れてゆかれるとしても、問われているのは、「わたしを愛しているか」。
私たちが信仰と愛を告白した時、答えられるのは 「わたしに従いなさい」です。
私たちの生涯を用いて主が行うのは、主の栄光を現わすこと。将来、何があっても。
ただ、主を愛し、主に従い、主の真実を腹に持って毎日を生きることだけが
もとめられているのです。そのずっと先に、約束されているのは、
私たちが新しいエルサレムとして神の国に迎えられる栄光の時です。
私たちの生涯を用いて下さる主の、栄光に向かうご計画が実現しますように!
私たちの日常の歩みが、主のみ旨にかなう道を進むことができますように!
お祈りいたします。