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「神の人パウロ 任務への決意」

 パウロは再びマケドニアの教会を巡回し、信仰を励まし、教え、いろいろな教会の指導者となった人々も彼と共に働きに加わっていました。
この4節5節に出てくる人々は、パウロの手紙にも名前が出てきています。
この名前を見ながら手紙を読むと、彼らにもそれぞれ、信仰の戦いや試練があったことが伺えます。使徒言行録の彼らは、若さと行動力に満ちていて、パウロの働きに加わるだけでなく、
移動のための船や、宿泊先の手配なども行っていたようです。
このころ、パウロは1人での伝道旅行をしていたのではなく、
団体としての働きが始まっていたようです。ただ、行く先々には不安も敵もありました。
パウロへのユダヤ人たちの陰謀があったことが、3節にさらっと書かれています。
伝道活動が活き活きと進むと同時に、伝道団体全体がパウロの置かれた危険な情勢を感じていました。パウロは自分自身に示された使命に向かって力強く前進し、
この年の五旬祭=ペンテコステにはエルサレムに居るよう、計画を持っていました。
 トロアスでパウロがほぼ一晩中話し続けた内容は、おそらく、後にミレトスでエフェソの
長老たちに向かって話した、18節から36節の話と似た内容だったのでは、と推測されます。
パウロはこの伝道旅行で会う人々に、訣別の言葉を残していきます。
ほとんどの人はその真剣な内容、深刻な内容に感動していたのですが、全員ではありませんでした。当時の建物の窓には現代日本のような窓ガラスも、窓枠も、転落防止の柵もありません。
 エウティコは眠気を催し、眠りこけました。
ここまでは、「あるある」とニヤニヤしてしまう人は少なくないでしょう。ただ、
座っていた場所が3階の窓だった。おそらく、その部屋にはたくさんの人が、それこそ「密」に居て、若い彼は少しでもパウロ先生のお顔の少しでもみえる所、風通しの良いところ・・・と選ぶと、この場所だったのでしょう。
伝道旅行中の逸話として挟み込まれたこのエウティコの話は、
旧約聖書に出てくる2つの話を思い出させます。
エリヤによって生き返ったサレプタのやもめの息子の話:列王記上17:21-24
エリシャによって生き返ったシュネムの婦人の息子の話:列王記下4:34
死んでしまった子は抱き上げられ横たえられ、神の人によって命を取り戻します。
福音の灯を伝える集会の人々の中で、パウロの言葉に信仰の火を掻き立てられていた人々には、エウティコが転落したことは、冷水を浴びせられるような経験だったでしょう。
パウロはすぐ、3階から降りて行きました。旧約の神の人とは違い、命を呼び戻した方法を
使徒言行録は記していません。
エウティコは生き返り、パウロや集まった人々と共に聖餐に与り、
その存在は人々に慰めを与えるものとなりました。
エウティコの死を嘆く時間を、パウロは人々に与えませんでした。
イエスが癒しを行った時も、癒されたことを人々に言うな、と、口止めされたことが書かれています。人の口から発する言葉は、時に言霊となり影響します。
「騒ぐな。まだ生きている」命のために働く神の人パウロは、呪ではなく福音を残しました。
 エフェソの長老たちをミレトスに呼び寄せたパウロは、集まった人々に
訣別の説教をしました。
パウロがエフェソに赴いて語ったなら、トロアスの時のように、集会は長々と続き、
パウロはまた数か月たいざいすることになったかもしれません。彼は急いでいました。
聖霊が、彼をエルサレムへと向かわせました。
 パウロがアジア伝道の初めの時、彼の自己評価がたいへん低く、彼の伝道は涙の祈りを伴うものだったことが語られました。
使徒言行録を読んでいるかぎり、パウロは心弱い人とは見えないですから、彼の言葉は意外なものですね。このあとの事について、パウロは「エルサレムに行く」という1点だけを計画として持っているだけであることもわかります。
私たちの人生もこの時のパウロのように、ひとつ目的をもって、とりあえず進むしかない、
そういう局面がしばしばあります。人生が紅海か、ヨルダン川か。
行くべき道を開かれて、そこを目指して進むのか、
それとも一歩進んで、その川の水に足が浸ってはじめて、進む道が与えられるのか。
私たちは、できれば紅海であってほしいと願いますが、ヨルダン川のように水が分かれることさえ無いような時がよくあります。パウロの行く先には、困難の予測しかありません。
指導してきたエフェソの長老たちにパウロは、
群れに気を配ること。邪説を唱え荒らすものに警戒すること。霊の眼を閉じることなく祈ること。そして、『受けるよりは与える方が幸いである』という言葉を心に、
自分たちの生活の働きを止めないことを言い聞かせます。
 パウロの予想通り、彼はこのあと二度と、トロアスにもエフェソにもミレトスにも、
行くことはできませんでした。このあとも、使徒言行録はパウロの動きを追うかたちで、
聖霊のお働きを記録します。パウロが自分の働きに、自分の計画を反映した能動的な動きができたのは、この20章までです。パウロも周りの人々もそれぞれ計画を持ちます。
しかし、使徒言行録のパウロも、現代の私たちも、本当に実現するのは人の計画ではなく、
神の計画、聖霊の働きこそが実現して行く、ということを信じ、委ねていきたいと思います。
お祈りいたします。