「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは大声で言いました。喉の渇きは苦しいものです。
イスラエルは乾燥した土地柄ですから、水分の欠乏は命にかかわります。
イエスを信じるなら、その人の内側から川が流れだす。それも、生きた水が流れ出すとイエスは言います。イエスはユダヤ人たちが集まる祭りの時に、神殿の境内で人々に神の言葉を語っていました。
ファリサイ派の学者たちは、イエスがご自分を天から降ってきた者だ、と言い、
神を「わたしの父」と呼んでいたことで、度々、イエスと対立しました。
イエスは安息日に神殿で病人を癒したり、五千人を越える人々にパンと魚を与えたり、
奇跡を行いました。奇跡は人間が行えることではありません。神ご自身か、神から選ばれた人だけが行うこととして、聖書では、奇跡のことを「業」とか「しるし」と
呼びます。奇跡は神の業、神が働かれているしるしです。
イエスの話を聞き、イエス行うしるしを見た人々はイエスに従い、イエスの後を追って歩くようになり、イエスの周りには多くの人がいっしょにいました。
イエスの所には、神殿の下役たちも来ていました。神殿の下役とは、神殿で礼拝する人のために準備する働きをする人達です。
彼らは祭司長やファリサイ派の学者たちに命じられて、イエスを捕まえに来ました。
それは、イエスの周りにいた群衆の中に、イエスを聖書に約束された救い主、
メシアだと信じる者が大勢いて、下役たちを遣わした人たちには、それはとても危険なことに思われたからです。イエスが居た時代も、その前後も、何人も「私はメシアだ」と言う人が現れました。
多くの人々は、救い主を待っていました。祭司長もファリサイ派の学者たちも、
たびたび現れる自称「メシア」が現れるたびに、多くの人が惑わされ、
人々の間で混乱が起き、そのたびに苦労してきました。人々を指導するために。
間違った教えを伝える人物を裁くために。人々を巻き込んだ騒動で、神殿での礼拝が邪魔されたり、ローマの兵隊たちからの取り締まりを受けたり。
イエスが現れた時、ファリサイ派の人々はまた、新たな自称メシアが現れたと思っていました。イエスが語る神の国の教えは、彼らは信じようとしませんでした。
イエスは群衆や神殿の下役たちに、ご自分はしばらくすると父なる神のもとに帰る、と言われました。さらにイエスは人々に大声で、生きた水の話をされました。
すでにイエスの中には、十字架から昇天に至るご計画があったのです。
そして、ご自身が天から送る聖霊について、語られたのです。
生きた水とは、新鮮な水、流れのある水を意味する言葉です。
ヨハネによる福音書4章で、イエスはここと似た話を、サマリアの女に話しました。
イエスが与える水を飲んだ者は決して渇くことがなく、飲んだ人の内で泉となると。
サマリアの女は信じて、救い主イエスの存在を町の人たちに伝える働きをしました。
神殿で、生きた水の話を聞いた人々は、イエスを預言者またはメシアと考えた人と、
信じなかった人に分かれてしまい、彼らは対立しました。
ここに一緒にいた人たちの中で、下役たちは少し変わった動きをしました。
彼らは、イエスを捕まえるためにやってきたはずでした。でも、彼らはイエスを
そのままにして、帰って来てしまいました。なぜイエスを連れてこなかった、と
聞く祭司長やファリサイ派へ、彼らは
「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えたのでした。
イエスを信じて従っていた人たちと同じように、下役たちも、
イエスがこれまであった人たちとは何か違う、と、感じていました。
イエスは「渇いている人はだれでも・・飲みなさい」と言われました。
イエスの話を聞いた人々は、皆、イエスのところで「飲む」チャンスがありました。
きょうの旧約聖書、詩編46篇には、神の力の大きさ、偉大さが書かれています。
地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶるさまに山々が震えるとも。
この箇所は、震災の時、読むことが辛かった記憶があります。
神が御声を出されると、地は溶け去る。
この恐ろしい表現の中、万軍の主がわたしたちと共にいます。神はわたしたちの砦、と、2回繰り返して歌われます。どんな天変地異の中でも、神は共にいて力強く、
私たちを守って下さる方だ、というのです。
神は揺らぐことのない神の都に居られ、夜明けと共に助けを与えて下さる。
夜の闇は、悩み苦しみや死のイメージです。
死の闇から解放される朝の光は、命の回復、復活のイメージです。
夜明けは救いと勝利の時であり、神の救いの言葉が与えられる時です。
10節11節は、戦争反対のスローガンに、よく用いられます。でも、神が戦いを終わらせ、弓や槍、盾などを破壊されるのは、私たち人間一人一人を、武装解除するため。
神から捨てよ、と言われる力は、私たち人間が、自分自身の力で人生を切り開こうとする力です。自分を守り、自分自身が傷つかないために、
私たちがしがみつき、持ち続けている力です。
神の御声一つで地は溶け去るのです。主なる神は、その存在そのもので、
地を圧倒されるのです。私たちは、自分たちが神から造られたもの、命も体も、
神から与えられた者であることを、よく知っておくべきです。
すべての権威は、神にあります。すべてのものは、神によって造られました。
私たちが持っている力など、神の前には小さなものだと、思い知るべきです。
詩編46篇5節で、神の都に喜びを与える大河のことが出てきます。
この河については、エゼキエル書47章にも出てきます。神の都の神殿の土台から、命の水の川が湧き出しているのです。
この河は泳ぐことができるほど豊かで、この流れが至る所は清められ、そこは命があふれる所となります。
イエスが人々の中で、川となって流れ出すと教えられた命の水は、神の都に喜びを与え、その流れのほとりには命があふれているのです。
イエスが教えた命の水は、聖霊なる神を表しています。
イエスを信じた人々には、イエスは命の水である聖なる霊を与え、聖霊の流れる所は清められ、神の都に至る命が溢れる泉が、イエスを信じた人の内に与えられるのです。
ファリサイ派の学者も、祭司長も、イエスの話を聞くチャンスはありました。
彼らはイエスが神から遣わされた方だと認めず、信じませんでした。
彼らはイエスを、他の自称メシアと同じ、惑わす者と考えました。
ファリサイ派の中に、夜、人目を避けてイエスの話を聞いたニコデモもいました。
祭司長たちから遣わされた下役たちも、イエスに特別なものを感じて、イエスを捕らえることをしませんでした。
イエスから飲み、渇きを癒され、聖霊によって、命の水の水源と
ならせていただくために、
イエスを信じるということは、人間としての権威を持っている人ほど、
難しいものだったのでしょう。
祭司長も、ファリサイ派の学者も、自分たちがこれまで対応してきた、ニセモノの
メシア、自称メシアとしてイエスを扱いました。
この地方で、メシアかもしれない人々に惑わされながら、諦めることなく探していた人々の中には、イエスを信じる者がいました。
イエスを捕らえるために遣わされた下役たちは、これまでファリサイ派の人々の話を聞いてきた時のようにイエスの話を聞き、これまでに聞いたことのない話し方を感じました。
自分自身が持っている知識や、人々の間で保ってきた権力やプライドは、
ファイリサイ派の学者たちをイエスの福音から遠ざけました。
その自分自身への自信こそ、神が詩編46篇を通して「力を捨てよ」と呼びかけたものです。 力を捨てること。どんなに努力し、手に入れた弓でも、大切にしてきた槍でも、頑張って持ち続けてきた盾でも、神の前には小さなもの。
神の前には取るに足らないものとして、手放すことも必要です。
神は、私たちの努力をお認め下さらない方ではありません。
私たちの方が、神が神であるということを認めて、私たちの武器を置くことが必要なのです。武器を握りしめている手を開いて、神に救いを願い、祈りましょう。
私たちと共にいて下さる聖霊なる神によって、川のように泉のように、豊かに新鮮な神の愛と恵みをいただきましょう。私たちの中で湧きあがる生きた水は、
私たちも大切な人をも潤します。神からの力で互いを潤す私たちの内からの流れは、やがて神の都を潤す流れとなります。恐れや悩みが私たちを苦しめる時、イエスの所に行きましょう。私たちは渇いている。だから、生きた水を飲みましょう。
聖霊を通して、神は私たちの地を圧倒し私たちの信頼できる砦となって下さいます。
お祈りいたします。
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