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「命を得るために」

 
 日本では緊急事態宣言が解除され、交通機関の利用者も増えました。
人と人の距離を保つことを意識するようになると、過去の映像を見ても、「密だな」と思ってしまいます。日常生活の中で、自分自身の価値観や危機意識が変化してきています。自宅に籠っていたところから職場や学校に戻る動きの中で、これまで
混雑を不快と感じていても、恐れてはいなかったことにかえって気づきます。
人間とは人と人がいて、その間、関係をどう作って行くかだ、と言われていました。
人と人の間。関係性を空気と呼んで、「空気を読め」や「雰囲気作り」という言葉が使われてきました。人間、の間の部分にある空気に、ウィルスという毒が在るかも知れない。その可能性は人間 から間 を消してしまいました。
人と人は、間を保ってきた関係から分断され、人々の孤独が増しています。
買物にも手続きにも、直接出向くことが少なくなり、いろいろな通信手段が使われます。リモートやウェブで共有される経験が増えています。
人の体臭が気になるはずの時期ですが、今年はお互いの体温が感じられない夏。
初めて見る夏が来ています。
 パウロはテモテに、異なる教えを語る人々をどう考えるかを教えています。
何も分かっていないのに、偉そうに議論し、口論ばかりしている。
悲しくなるほど、見たことがある光景と似ています。
マスクやトイレットペーパーの在庫が無くなり、
初めて出会う病気に勝つために、良いといわれる食べ物が売り切れ、
消毒のための薬品で健康被害の情報も流れます。何が役に立つのか、いま何ができるのか、何が求められるのか、私たちは何に慌てているのでしょう。
テモテたちの時代、金持ちになろうとした人々も、
求めているのは今の私たちと同じです。
私たちが何とかしてマスクを手に入れよう、外出を減らしたのは、病気になることを避けるため。命を守るためです。パウロたちの時代の人たちも、なぜ努力したのか、といえばそれは、命を守るためです。
パウロの時代も現代も、人間は健康を保つこと、より良い暮らしをすることを
追いかけて生きています。体にいいものは何か、美しく若くいられるにはどうしたらよいか。健康も若さも、誰にとっても大切なものです。
それは、死を遠ざけるもの。命を失う危険から離れるために必要なものだからです。
病気になり健康が失われることを恐れ、元気に若々しくいるために、
明日の暮らしを守るために。一生懸命になるのは当たり前のことです。
死を恐れて、命を失うことを恐れて、不安がねたみや中傷を生み、疑心暗鬼になり、絶え間なく言い争っています。命を失ったら、何もできない。人間は死を恐れます。
命は、人間が努力しても手に入らないもの。死は、努力しても避けられないもの。
死は生きている限り必ずいつかは訪れるものなのに、後戻りはできない、
人間はだれも、死というものの向こう側を知りません。
死を通り抜けて戻る経験をだれもしていません。だから、恐ろしいのです。
 パウロは命について、決定的なことを教えています。命がどこから来たか。
命や死について決定権を持つのは誰かを書いています。
私たち人間は、他のすべての神が創られたものと同じく、神から命を与えられ、
何も持たず、一人では生きて命を保つこともできない弱い赤ちゃんとして、
この世に生まれました。そして、命の終わる時、私たちは再び何も持たず、
生まれてからずっと持っていた体さえも、この世に置いたまま、死ぬのです。
 万物に命を与えるのは神です。神はすべての時を定めている方です。
そして、唯一の不死の方です。命を与えるのも、命を取り去るのも神です。
命は神から来るのです。人が知らない死の向こう側を知っているのは神だけです。
命も、死も、神が創られました。
 きょうの旧約聖書の箇所は、力を振るってよい知らせを告げよ、恐れるな、
と呼びかけます。人は野の花のように儚いものだけれど、
私たちの主の言葉はとこしえに立つ。永遠に失われることのないもので、
神はすべてを統治される、と書いてあります。
パウロはイエス・キリストの健全な言葉に従え、と言いました。
 パウロは人々の熱心が本質を外れた方向に向くことがないように教えました。
パウロの時代、イエス・キリストが伝えた福音以外の教えを広める者たちは現れていました。イエスの福音を巧妙に変えて伝えて、自分たちの利益に繋げるように
動く者たちもいました。パウロもテモテも、自分たちが伝えた教えが
変えられて伝えられ、イエスではなく人間が栄光や利益を得ようとする。
自分の利益のため、収入を得るために語る人々が居ることを警戒していました。
宗教はビッグビジネスであると言われます。
いつの時代も人の悩みや不安に漬け込む「うまい儲け話」は世の中に沢山あります。
パウロは「食べる物と着る物があれば、わたしたちは満足すべきです。」と言います。
空の鳥や野の花のように、生きるために必要な食べもの、身を守るために必要な
衣服が手に入っていること自体、ありがたいことです。
イザヤは主なる神を羊飼いに喩えました。羊はとても弱い生き物なのだそうです。
羊はとても近眼で、彼等の視界は半径1mほどしかありません。
群れで移動する時、飼い主の声は聞こえていますが、眼は目の前の
他の羊の体しか見えていません。
オーストラリアで学んだ先輩は、時々、野原に放置された倒木に、羊がぶつかって転んでいるところを見たそうです。羊はわりと早く走ります。
前の羊のお尻を見て走り、前の羊が飛んだら自分も飛び跳ねます。
数m先の羊が倒木を飛び越えたら、数m後ろの羊は
まんまと その木にぶつかってしまうのです。
羊の生態を見ると、私たちは羊に喩えられるのも無理はない、と思います。
迷いやすい視界の狭い羊、目の前の羊と同じ走り方をして、時には転んでしまう羊。
神は力ある方で、羊を養う羊飼いのように群れを集める。そればかりか、
小羊をふところに抱き、母羊たちを導かれる、と。
神は羊飼いのように群れを養われます。食べる物を得られるところへ連れて行き、食べさせ、懐に置くようにして護っていて下さる。
神の言葉は力強い。強いだけではなく、私たちの必要を満たしていて下さいます。
この方のもとで、私たちは満ち足りる、ということを知るのです。
羊の眼は近眼ですが、彼らは飼い主の声は聴き分けます。
私たちは飼い主の声を聞き分けているでしょうか?
イエスを通さない教えは、福音ではありません。イエスを伝えない教えは、
救いに繋がることも神の国に繋がることもなく、人を滅亡させます。
周りが見えない悩んでいる人を、間違った道に誘い込む誘惑や罠を、避けなさい、とパウロは言います。距離を置いて傍にいるのではなく、遠ざける。
そして、追い求めるべき、神の力を表すものが対抗するための武器として
並んでいます。正義、愛、忍耐、柔和は、すべて神のご性質です。
正しさの基準は、主権を持つ神にあります。
ご自身の正しさを捨てないまま神は愛であられるのです。
神は私たちが救いを受け入れることを忍耐して待って下さった。
神の忍耐は、十字架に架かられたイエスを見守り続けた、
父なる神の正義と愛が一致するところで示されたご性質です。
父なる神がイエス・キリストと共に十字架を耐え忍んで下さったので、
私たちは救い主イエスの十字架の犠牲により救いをいただくことができるのです。
神が柔和な方なのです。私たちが迷うとき、悩むとき、おだやかに見守り、
守って導いて下さる方なのです。
導かれて進む、この道が、私たちの信仰の戦いの道なのです。
戦い、というと過酷な苦しいものと思います。私たちは羊ですから、
羊飼いの声を聞いて進むのでなければ 歩みは危険でいっぱいです。
戦いの本当に厳しいところは、実はもう、終わっています。
神が忍耐をもって見届けられたイエスの十字架によって、戦いは勝利しています。
私たちが勝利に与って、永遠の命をてにいれるために必要なのが、信心と信仰です。私たちはこの方を信じる心を持ち、この方を仰ぎ見て、導かれて主と共に歩く。
おちどなく、掟を守れと パウロは言います。
父なる神を羊飼いとして信じて進むなら、私たちの歩く道は永遠の命をいただく、
もっとも近くて安心な道です。
生きて命を守るために、毎日注意して生活する時はまだまだ続くでしょう。
でも大丈夫です。この道に召して歩かせて下さる方は、力強い不死の方。
正義と愛の羊飼いである私たちの神なのです。
感謝して、お祈りいたします。