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「存続する神の国」


 ヘブライ人ヘの手紙が、近づいてはいけない山と書いているのは、エジプトから脱出したイスラエルの民がモーセに導かれて到着したシナイ山です。
この山はモーセにとって、神から選ばれてイスラエルの民をエジプトから導き出す使命を与えられた場所です。
燃え尽きることのない燃える柴の中から、神はモーセに、ここは聖なる場所である。足から履物を脱ぎなさい。と話しかけられました。 
イスラエルの民と共に主の山に戻ったモーセは、神の語る言葉を聞きました。
 イスラエル以外の民族の宗教は多神教で、多くの偶像がありました。
エジプトで長い間暮らしていた間に、アブラハムやイサク、そしてイスラエルが
神と共に生きた時のことは忘れられてしまい、イスラエルの民は、
自分たちの祖先の神に従う生き方を学びなおす必要がありました。
神に選ばれた民として、神を信じ、神に従うとはどう生きることか、
自分たちをエジプトから導き出した神がどのような方か、彼らが改めて知るために神は彼らに荒野を旅させました。
自分たちの先祖が礼拝した真の神は眼に見えない方。指導者モーセを通じて自分
たちを導き、民が守るべき戒めを与える方。民の声を聞き、答えて下さる方。他の国の偶像とは違い、人格をもって語り掛ける方。そして何よりも、聖なる方でした。
神と語るためモーセは山に登りました。モーセが民の代表として神に会いに行く時、神は民が自分たちを聖別するように指導されました。神のために民は身を清め、
服を洗い、神を礼拝するために心も体も整えました。
神が呼び寄せた者以外、山に登ることは赦されませんでした。
神の山は 触れただけで死ななくてはならない聖い場所で、民の宿営地との境界に触れたなら、人でも家畜でも、石打ちまたは矢で射殺すよう命じられていました。
民は自分たちを導いた神の力強い御業による奇跡を覚えていました。
自分たちがエジプトを出てから、神が海の中の道を歩かせ、食べ物や水を与えて
導いてきて下さったことを、民は度々、思い出し賛美しました。でも、
同じくらい度々、目に見えない真の神の代わりに偶像をつくり礼拝し、
神に背きました。神が正しく聖い方であり、容易に近づくことのできない方であることに、民は耐えられなかったのです。
ヘブライ人への手紙は、私たちに大胆に神に近づこう、と、教えています。
並べて書かれている聖なるもの、シオンの山とは神殿が建っている場所。
生ける神の都エルサレムと共に、神の民とされた人々が大切にしてきた場所です。
天のエルサレムとは天の神の国の都のこと。地上にあるエルサレムは、
天のエルサレムをモデルにして建てられたと考えられています。
22節の後半からは神の国と、そこにいる方々の様子が書かれています。
この近づきがたい聖い場所、神が居られる場所に私たちが近づくことができるのは、モーセの時よりずっと近く確実に、私たちを神に近づけて下さる方が居るからです。
私たちは、イエスの血によって罪を赦されました。神が遣わして下さった救い主の十字架の血が、私たちを聖めて下さいました。
イスラエルは神の聖さを恐れました。神と会い、神と語ることに憧れた彼らには、
神の声を聞くこと神の御顔を見ること神の山に触れることは死を意味しました。
カインが弟アベルを殺して埋めた時、アベルの血は神に向って兄の罪を訴えました。
イエスの十字架の血潮は、あのアベルの血よりも遥かに雄弁に私たちの罪が赦され、
私たちが神の国に入ることができることを告げているのです。
イエス・キリストが神と私たち人間の仲介者となり、新しい契約が結ばれました。
ヘブライ人への手紙12章には、神の国で起きる事が、賑やかな様子で
書かれています。私たちがイエスの十字架を信じ、受け入れて罪赦されたなら、
天の国では、無数の天使たちが集まって祝うのです。
天に登録されている長子たちの集会とは、神の家族の長子たちの集まり。
信仰の先輩たち、天の国に先に帰った方々の集いです。またそこに、
神の審判を受けて正しいものと認められた人々の霊も集まっています。
天使たちと共に祝いつつ、私たちを迎えてくれるのです。
 きょう、読んでいただいた旧約聖書ミカ書にも、神の国、ヤコブの神の家に集められる人々のことが書いてあります。
ミカ書に書いてある主の山とは、礼拝を行う場所の事です。
これは、聖書の時代の神殿だけでなく、現代の教会をも意味する言葉です。
私たちが礼拝し、神に祈る場所という意味でもあります。
私たち一人一人が、家など与えられている環境で、神に祈るために静かな場所を
確保し、心を落ち着けて目を閉じ、神と自分だけの時間を持つとき、
そこで私たちの主の山、神の家を経験します。
神の前に静まるために戸を閉じて座る場所に、また同じ神を信じる神の家族と共に、教会に集うとき、そこで神は私たちが持っている争いを治めて、
主にある平和を呼び戻して下さいます。
心がざわついて祈れない時に、私たちは主の山に集い、神の家に行く。
主はそこで私たちに道を示し、私たちの歩みを導いて下さるのです。混乱した
想いをもって祈り始めても、祈り終わりがすっきりとすることはあるでしょう。
 主が、足の萎えた者を集めて下さると書いてあります。
足の萎えた者とは、必ずしも障がいのある方のことを言ってはいません。
神を礼拝するために、主の山に登ろうと呼びかけたあと、主が足の萎えた者を
呼び集めて下さるのです。主の山に登ることが困難な人を、主は捨て置かれることは無いのです。礼拝に集うこと、静まる場所を得ることが難しい人を、
主は呼び寄せ、労わって下さる。
また、追いやられた者、礼拝の場 神の家族の集いから遠ざけられた者も、
主は呼び寄せて下さいます。遠ざけられた者とは、イスラエルの捕囚の民のことでもあるでしょう。預言者ミカが活動したのは、北イスラエル王国の都サマリアが
陥落し、南ユダ王国だけが持ちこたえていた時代です。
主は、足の萎えた者、遠く連れ去られた者を呼び寄せ、強い国とする、
主が彼らの王となられる。ミカ書はそう、書いています。
弱っているものを主は哀れんで下さる。そこは憐れみに満ちた神の国であり、
弱いもの、虐げられていたものも安心して集うことのできる、強い国なのです。
 ヘブライ人への手紙には、気になる恐ろしい言葉が書かれています。
神がもう一度、地だけでなく天をも揺り動かそう、と言われます。
また、私たちの神は焼き尽くす火です。と、書いてあります。
私たちを十字架の血で清めて下さる神は、イスラエルに山の境界に触れることを
禁じられた神です。神の国は、今も変わらず聖い義の神の国であり、
私たちが近づいて行くのは、神に従わなかった人々に裁きを下した神と同じ方です。
私たちが、神の前に聖くあることを求められていることは、変わっていません。
神は私たちが神の前にしっかりと立っているかを確認するため、揺り動かされます。私たちの中に、神の国に相応しくない罪の穢れが潜んでいるなら、
神の炎は私たちに向かいます。ただ、神の炎は今や、私たちを
滅ぼすことはありません。永遠の死と滅びをもたらした罪の問題は、
イエス・キリストの十字架によって完全に解決されています。
罪赦され、神の愛と恵みを受け取れるようになった私たち。
ですが、人生は楽しく幸せなばかりではありません。ほんの数日で私たちの人生は大きく変化します。変化に驚いた時、ショックを受けた時、一旦 目を閉じて、
助けて下さい、と、主なる神に呼び掛けましょう。
私たちは世の終わりまで、聖霊と共に歩みます。私たちの道にある迷いや 躓きを 聖霊は取り除いて下さる。私たちがまっすぐ神の国へ進むために、
私たちの人生を揺さぶり、時には火によって焼き清められるのです。
焼かれる痛み、揺さぶられる恐ろしさは辛いものです。
だまって堪えるのではなく、静まって落ち着こうと頑張るのではなく、
痛いです。怖いです、と、神に向って叫んでください。主は聞いて下さり、
共に居て下さいます。
 神の手は、私たちの人生をしっかりと支え、私たちの道が、まっすぐに神の国に続くものとなるよう導き、助けを与えて下さいます。
私たちは動き続け進み続ける時間の中で、見上げて助けを求める方、
支えて下さる方と出会っています。
私たちには目標とする場所、自分の現在位置を確認するための、
目印として、神の国を与えられています。
毎日の生活の中で、静まり祈る中で、その場所にいる自分を、
少しずつ経験しています。
助けて下さる方は、神から遣わされ、私たちのそばに、
私たちの中に居て下さる聖霊です。
神の国そのものは、揺り動かされることはありません。
永遠に時の終わりの先まで続く神の国を目指して、
神の手に支えられながら、きょうも生きてまいりましょう。
お祈りいたします。