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「キリストの平和」

 イエスの福音を受け入れる人が増えてエフェソで教会が形成されました。
エフェソでは福音を聞いた人々に聖霊が降り、パウロたちの伝道は神の祝福を受けました。しかし、会堂に集っていたユダヤ人たちの中には頑なに信じない人がいましたし、アルテミス神殿出入りの職人たちとの騒動など、苦労も多かった土地です。
そこには、大きく分けて2つの全く違う背景を持つ人たちがいました。
エフェソに昔からあるギリシャ神話の神アルテミスの神殿を大切にして、ご神体とされる像をことあるごとに拝んできた地元の人たち。
そしてユダヤ人やユダヤ教の信徒たち。長年エフェソに住んでいる人も、他の土地から移動してきた人も、決してアルテミスを拝むことはなく、服装も生活習慣も
変えることなく、自分たちだけの生活を守り続けてきた人たちでした。
元アルテミス信者とユダヤ教徒には、エフェソで始まった教会は全く違った意味と考え方がありました。
イエスを信じたユダヤ人たちにとって、パウロたちが伝えた福音は、自分たちの
祖先からの言い伝えの実現でした。イエスは神が自分たちイスラエルに与えた、
自分たちのための救い主でした。ユダヤ人たちは神が、預言者たちを通して与えた約束が成就されたことを喜んでいました。
 エフェソの町の人々は、パウロの語るイエスの福音が自分たちに与えるものを
知り、救いを受け入れました。
彼らはユダヤ人とは違い、先祖からの言い伝えではなく町の壮麗な神殿とそこに
置かれた女神の像を大切にして来ました。神殿の像は目には見えますし、手で
触れることもできます。しかし、神殿も像も、彼らに将来の希望を与えることはありませんでした。永遠の命の希望も神の国に繋がる信仰も、エフェソの人々には
新鮮な驚きでした。
ユダヤ人たちは信仰を持ったエフェソの人々に、真の神に仕える方法として、
自分たちが律法に従って生きてきたことを示しました。律法の通りユダヤ人たちは割礼を受け、神に相応しいものの生き方を代々守ってきました。
ユダヤ人たちはエフェソの人々を、割礼のないイスラエルに属さない者、
神を知らない者と呼んでいました。
同じ神を信じ、イエスの十字架による罪の赦しを知るようになっても、彼らは
お互い、相手を自分とは違うものとして、教会の中で一致できないままでした。
きょうの聖書箇所に書かれたエフェソの信徒たちと私たち日本のクリスチャンは、民族や国と信仰という意味では近い存在です。日本ではクリスチャン人口が
人口の1%を越えたことがありません。
 私は家族の中で最初に教会に通いだした者で、洗礼を受けてからも長年、家族の中で一人だけクリスチャンでした。洗礼を受ける事は私の決断として許してくれましたが、日曜日にはこの人は教会に行く。家族も親族も、私と親しいけれど生活は別、考え方も別、という理解になっていました。この人の信仰は理解できない。
解らないことはそのままに、あなたと私とは違う。争ったり攻撃したりしないために、お互いの間で心に壁をつくり、ぶつかりそうなときは近づかない。
私の信仰を理由に私を区別して、近づかないことで保つ争いのない状態。
それが、私の親族が私の信仰という問題を解決するためにとった解決方法でした。
 エフェソの信徒への手紙はエフェソの人々のことを、あなたがたはもはや、
外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であると書いています。
私たちは十字架によって、キリストが自分の罪の身代わりとなって下さり、
私たちが神の子として神の国に迎え入れていただくことができるようになった、と
教えられて来ました。。
きょうの箇所では、キリストの十字架は人類の罪の身代わりとして一人一人の罪が赦されるためだけではなく、人々の間の敵意の壁を打ち壊す、と書いてあります。
エフェソの教会でエフェソのギリシャ人とユダヤ人との間にあった壁。
ユダヤ人たちの持つ、自分は神に選ばれた民族の一人である、という自信と、
エフェソの人たちに対する差別感情による壁。
エフェソの、自分たちが持っていた神殿を中心にした生活から、
全く生活習慣の違うユダヤ人たちのいる教会へ入って行く新しい信徒たちの
ユダヤ人たちに対する心の壁。互いが持っている心の壁を越えて、神の家族として受け入れあい、理解し合うために、キリストの十字架は心の壁を打ち壊し、
二つのものを一つにすると、書いてあります。
教会は神の家族であり、私たち一人一人はイエスという葡萄の木につらなる枝であるとか、私たち一人一人はそれぞれ、役割を与えられた手、足、目、耳、口のような器官であると、イエスは教えて下さいました。
隔てられていたもの反目し合い敵対していたものが、キリストにあって一つになる。
キリストに在って私たちは、新しい一人の人となり、平和が実現される。
 一致できなかった者が、一致して一つになる。壁が打ち壊される。平和は、この
一見、無理なことが起こって、実現するのです。
互いを理解する努力、わかり合えない苦しみや違いを乗り越える勇気、自分の生まれ育ち、民族、目の色、肌の色、それぞれが持つ常識、「あたりまえ」と思ってきたこと。その一つ一つが造り出してきた壁を打ち壊して実現するのが、
キリストの十字架なのです。キリストが十字架で苦しみながら
廃棄して下さったのは、私たちが壊しきれない壁のかわりに、
私たちが互いを否定し、殺し合ってきた歴史の中の争いの根源にあるものです。
人と人、民族と民族、国と国の間に起こる争いは、人類が持つ罪の現れです。
イエス・キリストが十字架に架かり、父なる神から捨てられ、死に
陰府に降られた苦しみは、人間の争い合う性質を赦し、
一致させ平和に導くために、罪を清めて関係を癒す、
清めの十字架でもあったのです。
 きょうの旧約聖書は、神の言葉を伝える働きから逃げた預言者、ヨナの箇所です。
ヨナは神の裁きを伝えるため、自分が敵と考えてきたニネベに遣わされました。
目の前にいるニネベの人々が滅びることを、ヨナは願っていました。しかし、
ニネベでは王も人々も、ヨナの言葉を聞いて心を入れ替え、悪の道を離れました。神がニネベを滅ぼすことを思い直すことを、ヨナは預言者でありながら怒り、
ヨナは逃げるのも怒るのも思ったまま。自分の心の思いを隠しません。
さんざんに文句を言ってからニネベの様子を見るヨナ。素直に、まっすぐに
神に向かってゆくヨナに、神は心をかけ、とうごまの木を使います。
 神はキリストを十字架の上で苦しめ、痛み悲しみを経験させることによって、
地球上で争い合う人間たちに平和を与えて下さいました。
ヨナがニネベの滅びを願って見物しようとしたような、遠くから離れて見るようなことを、神は決してされません。イエスの十字架を見つめ続けた主なる神の眼は、私たちと共にいて私たちを見ていて下さいます。
なぜ、主は見つめ続けるのでしょう。
なぜ、人と人、国と国の間の壁に手をかけ、壊すために、
神はキリストを十字架で苦しめてまで、平和を造り上げられるのでしょう。
ヨナが神から言われた言葉を振り返ってみましょう。
「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 それならば、どうしてわたしが、この
大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。
そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
神は私たちを惜しみ、愛し、独り子イエスを十字架に架けるほどに、
全存在をかけて、私たちに平和を与えて下さる。私たち一人一人の関係を清め、
建て直し、神の国を造り上げるために、神が与えて下さるのが、
キリストの十字架による平和なのです。           お祈りいたします。