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「命の主に帰れ」

ホセアは、若くして北イスラエルの預言者として召されました。
ホセア書は小預言書と呼ばれる短い預言書の先頭に編集されています。
イザヤやエレミヤなどの大予言書がいくつもの時代をまたいで語られたのに比べ、
小預言書は特定の時代について、その預言者が実際に生きた時代の人々に向って
語られた預言の書です。
特にホセアは、ホセア自身の実体験を通して、神がイスラエルに対して
どんな思いで対峙しておられるかを預言するよう、神から命じられました。
実体験が伴っているからこそ、ホセア書は読んでいてとても辛い思いになる書です。
ホセアは妻が節操のない女と知っていて結婚し、浮気され、子どもたちに背かれました。神から淫行の女と結婚し、淫行の結果生まれた子を自分の子として育てるよう言われて結婚しました。ホセアは妻を愛し、何度でも努力して彼らを救い出し、子どもたちを慈しみ育てます。
神はホセアに言われます。イスラエルはあなたの妻のように不道徳で不従順だ、と。ご自身がどんなに辛く悲しい思いでイスラエルを愛してきたかをホセアに知らせ、
ホセアを通して、イスラエルに、神に立ち返れ、と、何度も呼びかけます。
まだ幼かったイスラエルをエジプトから導き出し、歩き方を教え、食べさせてきたのは私だ、と、神は語り掛けます。わたしの民はかたくなにわたしに背き、
他の神に捧げものをしている。わたしが彼らを見捨てることができようか、と、
悲痛な叫びが続きます。
ホセアは妻と自分、息子たちと自分の関係から、実体験として、
神がいかにイスラエルを愛し、苦しみながらも見捨てずにいて下さるのかを知って、
実感をこめて、預言しました。
イスラエルが神よりも頼りにしてきたアッシリアは、当時の世界の列強国です。
アッシリアは偶像を拝む民の国。イスラエルを攻撃し、滅ぼそうとした国です。
アッシリアに頼る、というのは軍事力に頼ること。どんなに強い国であっても、
人間の力に頼ることです。
また、自分の手が造ったものを神とは呼びません、と彼らは誓いました。
自分の手が造ったもの。人間の手が造った神。偶像は、動けない物体でしかない物。。偶像はそれ自体、見ることも聴くことも話すこともできない、自分では動くこともできないものです。自分たちを助けることも救うこともできないものを、
自分の手でつくり、神とする。これは、自分の手で自分の知識で造り出したものを神とする、ということは、結局は自分自身、人間自身を神とする、ということです。
偶像をつくり、それを拝むということの中には、人間がアダム以来、
ずっと持ち続けている、自分自身を神とする、最も大きな傲慢の罪の現れなのです。
偶像にいけにえを捧げて、真の神ではないものへ浮気するイスラエルの信仰の前に、
神は、わたしが喜ぶのは愛であって いけにえ ではなく、神を知ることであって、
焼き尽くす献げものではない、と、
心のない、形ばかりの彼らの宗教を告発されます。
神はイスラエルの罪を病として見て、立ち帰れ 立ち帰れと呼びかけます。
きょうの箇所で、神はイスラエルの誓いの言葉を聞きます。
「すべての悪を取り去り 恵みをお与えください。この唇をもって誓ったことを
果たします」と。
自分たちの中に、悪があることを認め、その悪を取り去って下さい、と願う、
罪の自覚を、主は求めておられるのです。
人間が、自らの罪を言い表し、神の憐れみに立ち帰ってきた時、背き続けた人間が立ち帰る時、彼らから怒りを引き離し、憐れんで愛し癒して下さいます。
 憐れみの業の中で、主が与えて下さる恵みが書き表されています。
露は、雨よりも静かに、乾燥した大地を潤します。
地上に降りた露は、やがて大地の活力を取り戻させ、草木は芽を出し育ちます。
百合の花は薫り高い花を開きます。花の香りは、聖書では人々の信仰によってもたらされる福音に喩えられます。
レバノンの杉は力強く根を張り、地中深くにある流れから水を吸い上げて育ちます。
大地の奥底のように深い深い神の愛を受けてイスラエルも育ち、レバノン杉が神殿を造り上げる材料になるように、信じる者たちは育ち、神の国を造り上げるのです。
オリーブが痩せた枯れた大地にも根を下ろし、陽の光を受けて豊かに実るように、
神の愛が注がれると信じる者たちは恵みを受け、生き生きと育って行くのです。
主なる神は、愛の神、憐みの神であり、命の神です。
主に命が満ちています。命は主なる神が与えるものです。
主から離れては生きることができません。主に立ち帰る時、
主は癒し、育つ様を 見守って下さるのです。
 きょうの新約聖書の箇所で、イエスは故郷であるガリラヤに戻り、最初の奇跡を起こしたカナに来られました。ガリラヤの人々は、イエスがエルサレムで、
多くの弟子をつくり、病を癒していたことを聞いていましたから、大歓迎しました。
イエスはこの時「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われました。
それまでイエスは病気や生れつきの不自由から人々を癒して助けていました。
この人たちは、福音を聞きたいのではない。神の子だと思っているわけでは無い。イエスが来たからには、きっと、不思議な奇跡を見ることができる、と、
人々が思っていることを、イエスは判っておられたのです。
そんなイエスのところに、王の役人が自らやって来ました。
役人は、息子が死んでしまわないうちに、命が失われないうちにイエスに自宅に来て下さい。助けて下さい、と願いました。カナからカファルナウムの役人の家まで、すぐに行ける距離ではありません。イエスは役人と同行して奇跡を見せる 
のではなく、役人の信仰を見ました。 「帰りなさい、あなたの息子は生きる」
あなたの息子の病気は治る、と約束されたのではありません。
あなたの息子は死なない、と、慰めを与えたのでもありません。
「帰りなさい、あなたの息子は生きる」と言われた言葉を受けて、
役人は信じました。
彼がカファルナウムに着く前に、彼を迎えに来た僕たちに彼は会いました。
息子の熱が下がったことを見届けた僕と、イエスの言葉を信じた父が出会い、
イエスの言葉が確かに、息子に働かれたことを父親は確認したのです。
イエスの言葉は、彼の息子を生かしました。
死の瀬戸際から呼び戻された、というよりも、イエスの言葉によって、
息子は新しい命を受け、「生きた」のです。命のしるしを見て、役人の一家に命の奇跡が起こりました。役人とその家族は揃って、イエスを信じる者となったのです。
 はじめ 彼は、イエスと言う、何か不思議な力のある人がいる。
その人なら息子を治してくれるかもしれない。そう思って来たのです。
ガリラヤに居た人々と同じく、何か不思議な業、強い力に期待して、
やってきた父親は、イエスの言葉によって命を与えられ、家族一同、新しい命に
生きる者となりました。
ホセアの時代、小さなイスラエル王国の周りには強い力を持つ国があり、
人々が拝んでいた神々は人の眼には大きく見えました。
しかし、真に力ある神はイスラエルに立ち帰れ立ち帰れと呼び続け、
彼らが振り向き祈るとすぐ、愛をもって答えて下さる命に溢れた方でした。
私たちの神は、愛の神です。私たちの神は忍耐強い憐みの神です。
恵みと憐れみをもって、私たちを見守り助けて下さる方です。
従う者に、命をもって答えて下さる方です。
新しい命の力を頂き、この方を讃美し、隣人たちに恵みを分かち合いましょう。
お祈りいたします。