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「主の憐れみの希望」

自分を受け入れてくれない相手に、自分の考えを説明するのは難しいものです。
パウロがイエスの福音を語った時、聞いた人々の中には、信じた人と信じられない人が
いました。信じられなかった人たちの中のユダヤ人は、パウロと同じ民族でした。
彼らはパウロの伝道を邪魔し、パウロをみつけると暴動を起こしました。
パウロがエルサレムに教会への献金を携えて帰ってきた時も、彼らにパウロは捕まって、
殺されそうになりました。暴動を治めるために来たローマの兵隊によって、
パウロはローマ帝国のユダヤ総督府に収監され、命を守られました。
今日の箇所は、パウロがユダヤ総督とユダヤの大祭司たちの前で弁明した箇所です。
ユダヤ人たちは総督にパウロを起訴しました。
ユダヤ人たちにとって、福音はユダヤ人のためのもの。聖書はユダヤ人に向けて書かれたものでした。イエスの福音を伝えた弟子たちパウロたちは、初めて福音を聞く異邦人たちに、聖霊が降るのを目撃しました。聖霊は民族にも律法にも、生活習慣にもこだわらず、
イエスを信じた人々を受け入れて、清めて下さる、ということを、パウロたちは実際に見て
知りました。
 パウロは総督に対しても、告発者の大祭司やユダヤ人たちに対しても丁寧に自分の信ずるところを語りました。弟子たちもパウロたちも驚いた聖霊のお働きを、ユダヤ人たちが
信じられないということは、パウロにも無理のないことと思われました。
パウロを訴えたユダヤ人たちの中には、すでにイエスを信じ救い主として受け入れている人たちも、沢山いました。彼らはイエスをイスラエル民族に与えられた救い主として
信じていました。同じ民族であるパウロが異邦人に伝道することは彼らには納得できません。
神が聖霊によってイスラエル人以外を救った。異邦人を救った、ということは、聖霊が降るところを実際に見ていない人には信じられません。
信じた異邦人は聖霊によって清められた。律法を守っていなかった人も神に受け入れられた。と考えたパウロたちは、ユダヤ人たちにとって、神と神殿を汚す者に見えたのです。
パウロは事前に預言された通り、捕まえられユダヤ人の法廷ではなく、
ローマの法廷に引き渡され、やがて囚人としてローマに行くことになります。
きょうの旧約聖書の箇所で、預言者ミカは神に向って、
自分たちイスラエルを羊のように牧し、導いて下さいと祈っています。
イスラエルが従うべき真の神、ミカに預言の言葉を与えて下さる神は、
咎を除き 罪を赦される方です。
咎とは、ここではイスラエルの 神への反逆を指して言っています。
罪とは、神を神としないこと、義の神を認めない人間の不正を言います。
神に背き、神に従わない人間も神は憐れんで、赦して下さる。
善い方、正しい方である神は罪を憎み咎を怒る神ですが、その怒りを
いつまでも保つことのない方、神の民に執念深い怒りを燃やす方ではありません。
人は神によって、神の愛を注ぐ対象として造られたものです。
神は羊を飼う牧者のように私たちを導きます。羊飼いが羊を守って闘うように、
神はイスラエルを強い国、大きい国との戦いの中で守り、滅ぼすことなく導かれました。
神を信じて神の声に羊のように従うなら、神は私たちを強い御手で守って下さいます。
羊を囲いに導き入れるように、私たちを神の民として導いて下さり、神の国に導き入れて
下さいます。導いて下さる神は、牧者であると同時に、私たちの父なる神なのです。
私たちの父なる神は、人間の父以上に人を愛し、見守り、助け、慈しんでくださいます。
私たち人間を愛し慈しむことを神は喜びとされます。
神は私たちを愛するために造られ、私たちを愛していることを喜んでいて下さる。
私たちが美しいからでも、賢いからでも、強いからでも、良い働きをしたからでもなく、
神が愛したいから、神はご自身の造った人間に心惹かれて愛する方。理屈ではないのです。
 パウロも、私たちと同じ神を信じ、神に愛される信仰の先輩であり、
同じ神の家族です。パウロは後に彼を告発した人々以上に、律法を守ることに真剣で、
熱心でした。イエスもイエスを信じる者も、自分たちが信じる神とその神殿を汚す者と考え、イエスを救い主として信じる人々を激しく迫害していました。
パウロには告発者たちのユダヤ人の神と神殿を守るための熱心と、彼らが自分に向けた怒りが理解出来ました。彼らが持つパウロへの憎しみは、イエスに出会う前のパウロと同じです。
イエスをモーセと預言者を通して約束された救い主と信じなかった人々も、
イエスを信じ教会に繋がって、イエスの十字架をユダヤ人とユダヤ王国のためのものと
考えた人々も、神を小さく考えすぎです。
神は天地万物を創った方です。私たち人類を助け、聖霊によって共に居て下さいます。
 私たちは人間ですから、お互いのことも、神がいま、どのようなご計画で
私たちを用いて下さっているのかも、わかりません。理解できないもの、わからないことをすべて拒否すること、嫌い、憎むことは、神の働きを邪魔して、神と敵対してしまう危険があります。パウロの伝道を妨害し、憎んだ人々がそうだったように。
神の造られたもの、赦されていることを、神の業だから私たちは愛するべきなのです。
ヘブライ人への手紙に次のような箇所があります。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。・・・
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、
神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方である
ことを、信じていなければならないからです。
神を知るため、聖霊によって神と人と繋がる力を頂くために、
神が私たちのために、わからないことの壁を乗り越えるため与えて下さったのが 信仰です。
神は、私たちが人間同士お互いのことも、神ご自身のことも理解できないことをご存知です。
理解できない私たちを愛し、私たちに対して慈しみを注ぐことを喜ばれる方です。
神は、私たちが理解できない者、神と同じように神を愛することはできない者であることを知っていて、私たちの不完全さをも 愛し受け入れていて下さるのです。
 私たちにとって、私たちの不完全さは悲しみであり苦しみです。
互いを理解できないことは、人間たちの中に差別や疑い、憎しみや恨みを引き起こします。
「わからない」ことは、私たちには不安で恐ろしいものです。
争いも、だまし合うことも、私たちが「わからない」という不完全さから始まります。
不完全を乗り越えることができる方は神お一人です。
私たちが神を信じ、神の力に期待し従うとき、
神は私たちを聖霊によって完全なものに造りかえて下さる。
神の国に向かう私たちの旅は、神による再創造が行われる時なのです。
私たちの頭では、神がなぜ 罪を赦し、反逆を赦して下さるのか、わかりません。
私たちは神が私たちを慈しみ、愛しさらに 喜んで下さる理由はわかりません。
わからないけれど、あるのです。私たちは生きていて、今ここにいるのですから。
すでに神は、私たちに生きる力を与え、存在することを赦して下さっているのですから。
だから、信じるしかない。
私たちの信じる力を邪魔し止める私たちの罪を、咎を、神は私たちから引き剥がして下さいます。私たちを憐み、私たちの罪を海に投げ込み滅ぼして下さいます。
信仰によって神に近づく、その力こそ、私たちが最も求めるべき力です。
神の愛を受け、神の憐れみを受けるために
私たちは自分自身の不完全さを、与えられた弱さとして受け入れましょう。
弱さを受け入れ、愛し哀れんで下さる神がおられます。
憐みの神こそが私たちの希望です。
ただ、神の愛のゆえに、ただ、神が私たちを愛し、憐み、慈しんで下さるゆえに、
「わからない」も「なぜ」も乗り越える神の憐れみに、期待し信じましょう
お祈りいたします。