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「恐れる者を選ばれる」


 水の上を歩く という奇跡は、聖書を知らない人たちの中でも知られている
奇蹟です。水面は泳ぐもので歩くものではない、というのが私たちの常識です。
私の教会学校時代、この箇所に影響され小学校のプールの授業中、溺れそうに
なった人が仲間に居て、恥ずかしかった記憶があります。ワタシジャアリマセン
マタイ14章の場合、さらに湖には強い風が吹いて舟でさえ進むのが難しい
気象条件でした。この舟には、プロの漁師の経験のあるメンバーが何人も乗っています。湖に慣れている、舟を扱うことに熟達している彼らでも困難な天候でした。
弟子たちは五千人以上の人々と共に、パンと魚をお腹いっぱい食べてから出発しました。彼らが舟に乗ったのは食事の後、群衆が解散するより前です。
イエスが歩いて舟に近づいてきた時は夜が明ける頃、と書いてあります。
弟子たちだけで舟に乗ってから10時間以上。だれが最初に叫んだのかは
知りませんが、「幽霊だ!」という叫び声で、弟子たちは人影に気づきました。
狼狽える弟子たちの耳に、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という声が聞こえ、ペトロは真っ先に気を取り直しました。
もと漁師の弟子の中でも経験豊富なペトロは、イエスが傍に来て下さったと知って、
元気を取り戻し、「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
と言いました。この言葉に、ペトロの信仰が見えます。
イエスが命令されれば、自分も湖の上を歩くことができると、ペトロは思いました。
これまで、弟子たちは、イエスの言葉によって病人や体の不自由な人が癒されるのを見て来ました。悪霊たちはイエスに命じられると憑りつかれた人間から出て行き、その人は正気に戻りましたし、パンと魚の奇跡も目撃したばかりです。
ペトロはイエスの御業を思い出し、「私に命令して下さい」と言ったのです。
イエスはペトロを「来なさい」と招き、ペトロは舟からおりてイエスに向って歩き始めました。ペトロがイエスに向って歩くのを見て、弟子たちも、
イエスの言葉の力を感じました。 でも、水の上を歩きだしたペトロは、
イエスの姿と言葉に夢中になって忘れていたのです。一晩中悩まされた風と波を。風の音を聞いて、ペトロの頭の中は怖れで一杯になってしまいました。
イエスに会えた喜びも、イエスの声を聞くことができた安心感も、
イエスに命令していただいて歩きだしたことも、
ペトロの中から追い出されてしまいました。
イエスには何でもできる!という信仰によって歩いていたペトロは、
水の中に沈んでしまいました。ペトロは、溺れそうになって
「主よ、助けて下さい」と、すぐ、叫びました。
助けを求めることができた彼は、素晴らしいと思います。
私なら、声も立てずに沈んで溺れてしまったことでしょう。
イエスはすぐ、手を伸ばしてペトロを捕まえて下さいました。
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」
イエスのこの言葉は、私の日常の中で 実にしばしば、響いてきます。
ペトロはイエスに答えて水の上を歩く経験をしました。
でも、他の弟子たちは誰一人、イエスに「命令して下さい」とは言いませんでした。、舟の外に出て行ったのはペトロだけです。
ペトロは老練な漁師です。風も波も、よく知っています。
その中で命を守るにはどうしたらよいか、判断できる経験も積んでいます。
だからこそペトロも弟子たちも、風は怖いものだと判っています。
知っている ということは、対応できる。怖くない。のではなく、知っているから、太刀打ちできない。恐ろしいと解っていて命の危険を感じたのです。
叫び声をあげる彼らの怖れを イエスは知っていて下さるから、まず、
「安心しなさい」と呼びかけて下さったのです。
 きょうの旧約聖書イザヤ書43章は、
神が自ら人間に対し、ご自身について語り掛けて下さる神の言葉です。
聖書は神の言葉ですが、神がご自身の手で直接、書いたわけではありません。
神は預言者イザヤを通して、イザヤの書く力、イザヤの語彙、想像力を用いて、
この文章を書き記しました。
 イスラエルという小さな国から見れば、ここに出てくるエジプトも、クシュも、セバも、強く大きく、豊かな国です。イザヤは神がいかにイスラエルを愛し
大切しているかを教えるために、神があの国々を、
あなたたちの身代わりにする、と 言ったのです。
 新約聖書以降、私たちにとって、身代わりといえばイエス・キリスト。
救い主と言えば十字架にかけられた主イエスのことです。
神はキリストを人としてこの世に送り、人としてこの世で殺十字架にかけ、
私たち人間を救い、私たちの国籍を地上から天へと移して下さいました。
イザヤは神がご自身を「救い主」と名乗られたことを書き記しました。
神が救い主をどこから遣わして下さるのかイザヤはまだ知りません。
神が身代わりとして救い主なる神イエス・キリストを世に遣わすという
ご計画も、十字架による犠牲も、イザヤにはまだ、想定外です。
神はご自身の姿もご計画も、私たち人間には秘められています。
イザヤも他の預言者達も、神のご計画を自分がすべて知ってはいないことが判っていて、それでも神に従い神の御心を行うことに勤めました。
神を信じ、その偉大さと慈しみの深さを知っていたからです。
私たち自身、目があっても見えない民、耳があっても聞こえない民です。
神を信じて従うために、神を知ることが必要です。
信仰が無ければ理解できない人のために、あなたを証人とする、と、
主なる神は言われます。
神は神の栄光のため、人を創造されました。神の栄光とは、神の存在そのものです。
神以外に神は存在しないことを私たちに知らせ、神が私たちを愛し、尊いものと考えて下さるので、どのような大きな身代わりを用意してでも、救いたい、
ご自身と共に神の家に連れ帰りたい、と願っておられます。
 ペトロはイエスの言葉の力を知っていましたが、水の上で怖れ、
溺れそうになりました。弟子たちは風と波に翻弄され、
イエスの姿を見ても、イエスと気づかず 恐れて叫びました。
私たちは今、聖書によってイエスの生涯を知り、イエスの言葉を学びます。
イエスに従い、イエスと共に暮らした12人の中の、この舟に乗っていた
マタイとヨハネ、そしてペトロの弟子マルコによって、聖書の福音書に、
イエスの地上での生涯が書き記されました。
彼らはイエスの記憶を書くにあたって、自分たち自身、イエスの奇跡に驚き、
恐れ、叫んだ者だったこともしっかりと書き残しました。そして自分たちが見た
イエスの御業を、水の上を歩き、風を静まらせたイエスと共に自分たちが居たことを記録しました。
 イエスがペトロと共に舟に乗ると、すぐ風は静まり、舟は無事に向こう岸に
着くことができました。弟子たちは風を静めたイエスを神の子として讃美しました。
イエスの目の前で、恐れて溺れたペテロのように、
私たち人は、すぐ恐れる者。弱い者です。
風の中で無力な自分を知り恐れた弟子たちを用いられた神は、
聖霊によって私たちと共に、神の国に向かう人生の旅をして下さいます。
私たちを用いて下さる方に感謝して、御言葉に期待しつつ、主の証人として
救い主を伝えてまいりましょう。
お祈りいたします。