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「主を記念する契約」

 
 イエス・キリストは十字架にかかる前夜、弟子たちと共に過ぎ越しの祭りの食卓を囲みました。食卓でイエスがパンを割き、杯をまわしたのが、最初の聖餐式です。主イエスが晩餐の席で言われた言葉は、今も聖餐の式文として各教会で、
聖餐式の度に読まれています。
 主イエスはパンと杯のぶどう酒を、「これはあなたがたのための私の体」
「この杯は私の血によって立てられる新しい契約」と言って弟子たちに与えました。
イエスは神の国を伝える者として、人々の前に現れました。
人々はそれまで、祭司や律法学者、ラビたちから、預言者の言葉やイスラエルの
歴史を通して神の御心を教えられてきました。
イエスは神を「私の父」と呼び、神の目線で人々を教え、人々の目の前で、
神の権威で人々の病を癒し、飢えた人々にパンを与え、嵐や荒れる波を静めました。
イエスは神の子であると信じなかった人々は、イエスを十字架に架けました。
イエスが人間であるのに、自分を神の子であると言ったから。人間イエスが神の子であると偽証したから、神を汚した者として有罪であるという裁きが下されました。
イエスは十字架で死に、墓に葬られました。
人間として生まれた神の子イエスは死んで陰府に降り、人間として滅びました。
3日後、イエスは復活し弟子たちをはじめ、イエスを神の子救い主であると
信じた人々の前に現れました。
復活したイエスを救い主キリストであると信じた人々は、その信仰によって
神の子とされ、神の家族として神の国の国籍を与えられました。 
イエスはその死によって神から遣わされた救い主としての御業を行い、
死者の中から復活することによって死を滅ぼす、大きな神の業を行われました。
人間としてこの世に生まれた救い主なる神を信じなかった人々は、イエスがご自身を神であると偽証した、と言って裁きました。その裁きは実は、
神の子を救い主として信じなかった人々自身が、
神を冒涜し汚す罪人であることを示す結果になりました。
この、イエスの死と復活が聖餐式に現わされているのです。
イエスは聖餐によって、私たちを食卓に招いて下さっているのです。
十字架は、救い主イエス・キリストが、人間の罪の身代わりの小羊として
奉げられた祭壇でした。
イエスを十字架に架けて殺したのは、自分自身であった、と
認めた者は、イエスが十字架で奉げた命を受け取ります。
私たちはイエスの十字架による贖いは自分の罪のためであった。
十字架は自分に必要だから、私たちは、イエスが最後の晩餐で聖定された時のように、パンを食べ杯から飲む。食べる、飲む、という命を維持する行動が、
私たちの神の家族としての命に繋がっているのです。
私たちが持っていた罪は、私たちを滅ぼして永遠の死によって私たちを神の国から永遠に引き離す力を持っていました。
イエスはご自身の死によって、私たちを滅びから救い出して下さいました。
罪は私たちにとって、命を滅ぼす大きな借財でした。
イエスはご自身の命を支払うことによって完全に肩代わりして下さいました。
私たちの罪と言う永遠の死に至る病は、イエスの死によって完全に癒され、
私たちの魂は命の主の家族として迎えられました。私たちが受け取るイエスの命は、死と復活を通り抜けた命であって、すでに、主イエスと共に一度 死んだ命、
一度 滅びた命。もう2度と滅びることのない命です。
 きょうの旧約聖書 箴言では、知恵が用意した食卓と、招かれる人について
書かれています。彼は招く人に、高い所から呼びかけさせます。
「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」
高い所から、できるだけ沢山の人の耳に、招く声が聞こえるように呼びかけます。
この呼びかけは、呼んだひとではなく、呼びかけられ招かれた人の側に、覚悟、
または開き直りを必要とします。
「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」
浅はか、と言われて怒る人は、招きを受けることができません。
浅はかだ、と言われることを受け入れ、浅はかな自分を自覚しているならば、
招きを受けることができます。
 私たちの教会は、十字架を高い所に置き、教会の存在を示しています。
町の風景の中で、十字架はそこにイエスを救い主として信じる人の群れがあることを示しています。十字架は高い所に置くべきです。イエスの十字架と復活の良い知らせは、大いに沢山の人に知らせるべきで、秘かに隠しておくべきではありません。
呼びかけさせた知恵は、自分の食卓で
パンを食べ用意した酒を飲む者は、浅はかさを捨てて命を得る。分別の道を歩む、と言います。
分別、とは何が良いものかを見極めることです。
見極め、判断するためには、確かな根拠が必要です。
どこにいても、どんな立場でも、正しい、と言える判断力は明確な基準が必要です。
主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。
この言葉は箴言全体のテーマであり、聖書全体のテーマでもあります。
主を畏れる、というのは怖がる、というのではなく、
主の存在を知って尊び、大切にするということです。
神が存在して、私たちもすべてのものも造り出したから、すべては存在するのです。
主なる神がすべての最初であり、最高であり、最大である。
この方を知って、得た知恵によって、何が良いもの、大切なものであるかを判断できるようになるなら、私たちはもはや、浅はかな者ではない。
知恵ある者、主を畏れる者として歩いて行くことができるのです。
 高い所で、多くの人に知らせるのは、命を得させるためです。
この命は、私たちが十字架のイエスによって与えられた、2度と滅びることのない命、神の家族として神の子として生きる命です。
教会が、高い所に十字架を掲げ、多くの人にイエス・キリストの福音を伝えようとするのは、多くの人を滅びから救うためです。
全世界に出て行って、全ての造られたものに福音を伝えよ、と、
復活のキリストは私たちに命じられました。
教会が伝える福音は、すべての人を救う福音、世を滅びから救い出す福音です。
 わきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いする、と、
きょうの箇所で教えられています。
わきまえ、とは、覚悟でもあります。私たち自身が、自分では罪からも死からも、逃れることができない、弱い者だと認めることです。
イエスを裁判にかけ十字架刑の判決を下した人たちのように、
もし私たちが、自分は正しい、自分にはイエスは必要ない、と考えるならば、
私たちの弱さ、病、痛み、苦しみは、そのまま、
私たちが受ける裁きとなってしまいます。
イエスの十字架を見上げて、私たちの弱さ、痛みを喜びましょう。
私たちに聖餐のパンと杯を用意された救い主は、ご自分によって、
私たちの弱さ、痛み、悲しみと共に働いて下さる命の主です。
お祈りいたします。