· 

「命の糧」


 動物の肉を食べることをいろいろな理由で止める人がいます。
宗教上の理由で、または健康上の理由で、特定の動物を食用にしない考え方も、
野菜中心の食生活を送る人もいます。
ユダヤ人が守ってきた律法の中には、食べてよい生きものと、食べてはいけない
生きものが書かれています。ユダヤ人の生活圏と日本人の生活圏の自然条件の違いや時代から、「安全」に違いが出た結果とも考えられます。
 ローマの信徒への手紙で、パウロが言っているのは、「食べてはいけない」ではありません。14章のはじめから、パウロが書いているのは、「何をたべるべきか」
ではなく、「兄弟を裁いてはいけない」ということです。
兄弟とは、イエス・キリストを信じた信仰の仲間たちのことです。
パウロの時代、教会に集まった仲間の中には、律法の規定を厳格に守るユダヤ人もいました。イエスを信じるまではギリシアの神殿で神々の祭りに参加し祝って来た人もいました。ローマの貴族たちの中で生活していた贅沢な暮らしの人も、奴隷として生活していた人もいました。生活習慣も、考え方も、価値観もバラバラな人たちが、教会に集まり、共に聖餐のパンを分かち合う神の家族となったのです。
 パウロ自身、伝道旅行で行った地域によって、その土地ならではの食習慣に出会い、生まれて初めてのことも多くあったことと思います。
そうした経験から、パウロはそれ自体で汚れた物は何もない、と、
信仰をもって言えるようになりました。
 どの民族の、どの食卓に上るものも、その土地に住む人のために神が与えた恵みです。たとえばユダヤ人たちのように。律法の規定を守ることを自分にとって
正しい方法だと考えることは、その人にとって誠実な神への礼拝なのです。
動物の肉を食べることは、自分にとって愛のある行動とは考えられない、と
考える人にとって、肉料理の並ぶ食卓は、喜びでも豊かさでもないのです。
相手の習慣や考え方を軽く考えることは、相手を苦しめることなのだ、と、
パウロは教えます。
どんなことも神からの祝福だと感じられる人のことを、パウロは強いと言いました。これは食卓だけのことではありません。
 毎月の初めを、神から与えられた新しい月として喜び、その日を記念して
捧げものをする人がいます。また、毎月の終わりを、その月を共に歩んで下さった神への感謝の時と考える人もいます。どちらかが正しいのではありません。
どちらも、神への誠実な愛と信仰による行動です。
どちらも、神の喜ばれる祝福された生き方です。
神の家族として受け入れられた私たちは、神に喜ばれる生き方、
イエス・キリストに倣う生き方を日々、模索して生きるものです。
パウロは手紙の中で、互いに裁き合わないようにしよう。兄弟の前につまずきとなるものを置かないようにしよう、と言います。
「わたしはクリスチャンになったのだから、
誰に対しても愛をもって優しく接する人でなくてはいけない」と、
考えてしまうことはとても真面目なことだと思います。
でも、それは、辛い。その真面目さは自分自身を裁いてしまっています。
食べ物のことで、兄弟を滅ぼしてはいけません、とパウロは言います。
その人は、イエス・キリストが十字架に架かってまで救った人なのですから。
イエスが命をかけて救い出した魂を、私たちの真面目さで滅ぼしてしまうことは、
悲しいことです。神も悲しまれることです。ローマ書14章の4節には
「他人の召使を裁くとは、いったいあなたは何者ですか」という言葉があります。
全ての人は、神に愛されています。全てのクリスチャンは、神を信じイエスの
十字架によって罪の中から買い戻された神の僕です。私たちはすべて、
自分自身も含めて、私たちは私たち自身のものではありません。
神が愛し、神が守り、神が導き神の国へと召して下さる神の召使です。
 きょうの旧約聖書で、預言者エリヤを助けたのは1人のシングルマザーです。
サレプタは、シドンという国の町です。自分と息子は、もう飢え死にする、と、
運命を見定めていたこの女性は、エリヤが求めたもてなしさえ、できない状態に
いました。旅人を水1杯、パン一切れを与えることは、出会った人の
命が永らえることを願う荒野の民の習慣です。
出会った人に何も与えないことは、その人の命を軽んじることです。
でも彼女には、いま、エリヤにパンを与えることは、自分と息子の命を差し出すことでした。その地方の干ばつと飢饉は、彼女たちのような弱い立場の人の命に
危機をもたらしていました。エリヤは預言者として、神の約束を告げます。
まず、エリヤのために小さいパンを持って来なさい。
その後、あなたとあなたの息子のために作りなさい。「主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく 瓶の油はなくならない。」
この箇所は、献金や捧げものをすることについて教える御言葉として用いられます。
まず神の必要を満たす。神はまず奉げるものを必ず恵まれる。
 きょう、私はこの箇所から、捧げる者の覚悟を学びたいと思います。
エリヤの言葉を聞いたこの母は、粉も油もどう使うか、決定権が握っています。
エリヤを無視して、当初の予定通り死にゆく自分たちの命運を受け入れるという
生き方も、可能でした。彼女は、エリヤの言葉に神の恵みの可能性を見ました。
覚悟をもって、信じてみることに賭けたのです。
 神を礼拝することを習慣とする。それは、礼拝するために時間を奉げることです。
神は十戒の一節で「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と言われました。
たとえば日曜日の数時間、仕事をするのではなく教会に行く。聖書を読み、
賛美歌を歌い、祈るために時間を使う。礼拝のために神の前に静まる時間は、
信仰を持たない人から見れば、収入を得るための機会を捨てている、と 見える
行動です。神の前にその時間に得られるはずの対価を奉げている、とも言えます。
サレプタのやもめが、エリヤが伝えた預言の言葉に賭けたように、私たちは覚悟をもって神の前に出るのです。礼拝も、日常の祈りも、私たちの捧げものです。
サレプタのやもめは、神の言葉に自分の命運を賭けた時、
自分と息子の命を差し出す覚悟を持っていました。
私たちが奉げる時間は、サレプタのやもめの、壺の粉や瓶の油と同じくらい、
貴重なものです。 一人一人が誠実に愛をもって神の前に捧げるそれぞれの礼拝を、パウロは尊重し敬意をもって受け入れあうように教えているのです。
人が良い悪いを決めるものでもありません。人と比べることも、未熟さや不足を
感じて、やましさを抱える必ことも、必要ありません。
神の家族の集いである礼拝は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びです。
その人 その人が持つ神への熱心。その人 その人が持つ神への誠実な愛は、
神が受け入れて下さってさらに豊かになり、私たちの日常の時間を力づけるものとなるのです。
お祈りいたします。