士師記は、イスラエルにまだ王が居なかった時代の記録です。
約束の地カナンでの暮らしをはじめたイスラエルの民は、たびたびカナンの
先住民族の神々への礼拝を自分たちも行い、自分の神への礼拝を疎かにしました。神は民が苦しみの中で神への信仰を思い出すために、近隣の国や民族が
イスラエルに攻め込むことを許し、イスラエルが苦しんで叫ぶたびに、士師と呼ばれる指導者を遣わして民を導きました。
ギデオンは士師に選ばれた時、敵から隠れてぶどう酒の酒ぶねの中で小麦の脱穀をしていました。敵が攻めてきて小麦を奪われたら取り返せない。そう考える
弱いギデオンに、神の使いは「勇者よ」と語り掛けました。ギデオンは神に
捧げものをして、神の言葉を伝えた御使いに、あなたが本物かどうか、
しるしを見せて確認させてくれ、と、頼みます。御使いがギデオンの捧げものに
杖の先で触れると、岩から火が燃え上がり、捧げものは焼き尽くされました。
この方は本物だ。自分は神を試してしまった!恐れおののくギデオンを神は
勇気づけ、ギデオンは神から命じられたように、自分の町にあるカナンの神の像を壊し、燃やすことができました。
次にまた、敵がさらに強くなって再び襲ってくると知ったギデオンは、今度は
自分と一緒に戦ってくれる人を呼び集め、敵と戦うために準備をしました。
神を試してしまった!と恐れていたはずのギデオンは、今度も
まっすぐ神に向って、しるしを見せて、私を納得させてください、と願います。
以前は1回、神が捧げものを受け取って下さったことで彼は動くことができました。
今回、大勢の仲間と共に神の働きを行おうとするギデオンは、同じ場所で2回、
神が奇跡を起こして下さるように願いました。
神から呼びかけられる前のギデオンは、イスラエルの神への信仰を失いかけて
いました。神は自分たちを見捨てて、敵に引き渡した、と、思っていました。
敵を恐れて憎み、神を信じられず、神を愛することができず、恐れと不信ばかりが繰り返す中にぐるぐると、はまり込んでいたのです。
きょうの新約聖書の箇所の手紙を書いたヨハネは、ギデオンのような
恐れと不信のループから抜け出し、愛と信仰と勝利のループの中で生きることを
勧めています。
ヨハネの手紙を受け取ったのは、使徒たちが活躍した使徒言行録よりも少し後の、
キリスト教の教会が数十年の歴史を持ったころの教会の人々です。
イエス・キリストが人間の姿で生まれて下さった神の子であり、救い主である。
イエスを救い主メシアと信じる人は救われて、神の家族となる。
この福音が、人々の心に響きにくい時代が来ていました。
ヨハネの手紙を受取った人たちにとって、イエスと共に生活した弟子たちや、
パウロたちの伝えた聖霊の働きの記憶は昔の物語のように思われました。
神が人間となって、この世に来られるなんて、実際にはあるはずがない。
まして、神が十字架に架かって死んで葬られるなんて、ありえない。
人間の考えで神を理解しようとする人たちが教える聖書の読み方は、この時代の人たちの信仰を揺さぶり、信じていた人たちにも 不安を感じる人が増えていました。
ヨハネが教えた福音は、とても単純で明確です。
イエスが救い主であると信じる人は、神から生まれたものです。
イエスが神の子であり、イエスの十字架はすべての人の罪の身代わりである、
イエスの十字架が自分の罪の代償である、と信じる人は、神の子として神に受け入れられます。神を愛する人は、神から生まれたイエスを愛しますし、
イエスによって神の子とされたイエスを信じる人々をも、神の家族として愛します。
皆さんは、沢山の人といっしょに写真を撮る時、その写真が良いか良くないか、
どう見ていますか?大抵、私たちは自分の顔が良く写っている写真を「良い写真」
なんだか変な顔に写ってしまった写真を「良くない写真」と思ってしまうものです。
自分は、自分にとってどうしても一番、たいせつなものです。
神は、私たちの自分を一番愛する性質を知っていて、私たちをご自分に似せて創造して下さいました。神は私たちを愛する、大切な存在として造って下さいました。私たちが、自分を愛するように神である方を愛することができるように造って下さった。最初から、私たちは神を愛し、神に愛される存在として造られたのです。
神が私たちを愛して下さって、私たちを守って、私たちを神の家族として迎え入れて下さいます。私たちは罪によって神から離れた存在になっていましたが、
神は私たちを愛しているので、私たちが離れていることに耐えられない方なのです。
私たちが神から離れ、永遠に滅びてしまうことに、神は耐えられない方なのです。滅びて行く人間を救い出し、ご自分のもとに取り戻すためなら、
ご自身の独り子であり、神ご自身でもあるイエス・キリストを
十字架にかけて苦しめ、私たちの代わりに陰府に降らせることを、
神の子に死の苦しみと、神から捨てられる苦しみを味合わせる事の方を選んで下さる方なのです。神が私たちを愛していて下さるから、私たちを守って下さるのです。
神の愛の大きさ尊さは、言葉で聞いただけ、読んだだけではわかりません。
イエス・キリストを救い主として信じることの難しさは、いつも、
信じる信仰を持っているかどうかにかかっているからです。
イエスを信じたなら、イエスを遣わして救って下さった神を信じるなら、
あらゆる価値観が信仰によってひっくり返ります。
聖書に書かれた神の掟が、守るべき苦しい決まり ではなくなり、
神からの愛に驚き喜ぶ、私たちの内側から沸き起こる愛による力で、
守ろうとする前に行ってしまう掟になります。
神を愛しているから、神が創り出した人間を愛する者になります。
神を愛しているから、神が創られたすべてのものは大切な守るべきもの、
知恵をもって扱うことそのものが喜びとなります。神を愛していると、
掟を守ってしまう。掟を守らなければ神に愛されない、のではなく、
神を愛しているから、神に喜んでいただきたい、と思って生きると
掟は、苦しいものではなくなる。神による勝利が与えられるのです。
ギデオンは、神に呼び出されてそれまでの彼には考えられない、勇気ある、
大きな働きをしました。
神の言葉に信頼して従うとき、彼はそれまでの臆病な彼ではなくなりました。
でも、羊の毛が吸い込んでいた水を杯に絞りながら、まだ迷いと恐れを捨てることができなかったギデオンは、自分が信じるために、もう一度、しるしを求めることで、神の力が必要であることを神に向って願い、求める力を与えられていました。
神を愛するとは、神の掟を守ることです。すべて命と力は神から与えられます。
人間の力だけでは、信じることも喜ぶことも生きることもできない。
神が愛して下さるから私たちを守って下さり。
私たちは神から与えられた神と神の造られたすべてを愛する力で、
神の掟を守り、神の愛によって罪と恐れに勝つ人生をいただきましょう。
お祈りいたします。
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