1
モーセは主なる神に 願いました。
「主よ、
わたしちの中にあって進んで下さい。罪と過を赦わたしちをあなの嗣業とて受け入れください。」 わたしちをあなの嗣業とて受け入れください。」
嗣業 とは 人間で言えば、 王様や将軍が後を継ぐ者に譲り渡す 、財産と権力のすべてを
表します。 人間であるモーセから創造主神に 「私たちを所有して下さい」と は
かえって無礼のよう ですが 、これは イスラエルを導いてきた指者モーセの 、
信仰告白 であるとも言えます 。
神ご自身に共歩んでいただ くことを 私たちは望みます。
わたし モーセを含めた イスラエル 全体 を神様 、あなたにお捧げしているからです、と。
イエス・キリトの十字架による罪赦しと、助け手て聖霊を与えられいう
ことを、私たちは神の子される大きな恵みして聞います。 ことを、私たちは神の子される大きな恵みして聞います。 神に近づくことが 赦されなかった人間が 、罪て神の霊である聖を受け事できる。
これは、大きな恵みであり福音喜びると教えらて来ました。
民の中に主が共居られ歩まることを願う、
いは民が主に対して不誠実で信仰あること を、常の前見せさら出い民が主に対して不誠実で信仰あること を、常の前見せさら出い民が主に対して不誠実で信仰あること を、常の前見せさら出い民が主に対して不誠実で信仰あること を、常の前見せさら出い。 神が、共にいるイスラエルの内面現実を知って当然と 考えるのは、
後の時代に生きる私たち考えです。
イスラエルの民は、神から十戒を始めとする律法与えれました。
2
神が人の中に共におられる、神の民である自分たちに、神がどんな生き方を求めておられ
るのか。律法を通し、指導者・預言者によって神の言葉を聞いても、彼らは理解せず、
何度も神に背きました。真の神を知らない人々が持つ宗教に憧れ、偶像を造り、
自分たちの心に真の神への誠実な信仰が無かったことは神の前に明らかになり、
聖書にも記録されました。イスラエルはまさにこの時、神様とはどんな方か、
神の前に自分たちはどのような存在か、神と共に学び、知り始めたところだったのです。
ヨハネによる福音書8 章で、人々が連れてきたのは姦通の現場で捕らえられた女、
と、書いてあります。
女性とそして不倫相手がどんな状態の時、人々が、彼女を捕まえたのかはわかりません。
自分の夫ではない人と共に暮らしていた所から、彼女は拉致され連行されたのでしょう。
レビ記20 章に 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は
姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。 とあります。
きょうの箇所で、人々は女性だけを連れてきました。一人だけ裁こうとしています。
男も女も、と書いてある律法の言葉を無視しています。その点を突かれたら、
彼らがしようとしていた裁きは、すでに問題行動です。律法違反です。
彼らがここに集まってきたのは、この女性を裁くことが目的に見えます。
人々は、祭司や律法学者の所ではなく、
イエスが座って教えを語っておられた 神殿の境内に彼女を連れてきました。
当時、律法で死刑とされる罪を犯した人は、祭司の立会のもとに町の城壁の外で、
石打の刑によって処刑されました。
3
裁判を行ってローマ軍の監督のもとに行う十字架刑とは違い、
宗教的な判断のみで行う いわゆる ワタクシの刑 私刑でした。
使徒言行録で最初に殉教したステファノも、ユダヤの最高法院の判断が下りたのち、
町の外に連れ出され石打ちの刑になっています。
人の死は汚れと考えられていましたから、町の城門の内側、まして
神殿の境内では私刑を行う事はできません。
それなのに、人々は神殿の境内に居たイエスの前に彼女を連れてきました。
神殿には、祭司がいます。律法上の罪を判断するために。
必要な判断力を持った人々の前で、イエスに彼女の命に係わる判断を求めたのです。
彼女だけでなくイエスをも、律法上の罪ある者として裁くために、
イエスの言葉尻をとらえる機会を、祭司や律法学者がいる場所で得ようとしたのです。
イエスがこの女性を赦すよう人々に言うなら、彼らは
イエスが彼女の律法違反を軽視した、といって、イエスを訴えることができます。
イエスがこの女性は律法に違反した、死に価すると判断し、処刑するよう指示したなら、
律法の 男も女も、という記述に反したことを指示したと言ってイエスを訴えたでしょう。
もし、その場でイエスが彼女に石を投げたなら、
清い神の神殿を罪人の血で汚した、ということでイエスを訴えることができます。
すでに人々の目にも心にも、その場に一人で立たされ、晒し者にされ、
処刑されるかもしれない恐怖の中にある女性に、心を向ける人はいません。
このような状況で、人々も彼女も、あのイエスの言葉を聞いたのです。
4
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
この少し前から、イエスは指で地面に何かを書いていた、と、聖書は書いています。
書いている途中で身を起し、先ほどの言葉を言ったイエスは再び、地面に書き続けられました。神の子イエスが、その指で地面に書いたものが何であったかはわかりません。
イエスの言葉を聞いた人々は、一人、また一人とその場を離れて行きました。
年長者から始まって と、ヨハネが書いていることは示唆に富んでいます。
若い、熱意と血気に燃えた者は、イエスの言葉に反論はできないながら、そこに立ち続けていましたが、年長者はその言葉によって内に呼び覚まされるものがあったのです。
モーセが神に願った「わたしたちの中にあって進んで下さい」という言葉。
神の手が石の板に書き記した十戒を始めとする律法。地面に何かを書くイエス。
律法をたてに裁きの判断をイエスに求める人々。
神はモーセの言葉に応えて、
ご自身がこ民と契約を結び驚くべき、恐る業を行うと言われました。
神がモーセとイスラエルに約束された契約は、生き続けています。
自分たちの律法への熱心、ひいては神への熱心による行動だと思って行動した彼ら。
その心に、
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が」というイエスの言葉が呼び起こした、
自分自身の内にある性質への思い。生きてきた日々の中で、自分の行動の中に反省と後悔を自覚するためには、人生経験は良い指導役となるものでしょう。
自分の人生を、神の前に引き出された時、彼らは罪ある存在は、自分たちが連行した
5
この女性だけではないことに思い至ったのです。
人々は結局、イエスと女性だけを残して立ち去りました。
イエスに、「だれもあなたを罪に定めなかったのか」と聞かれた女性は、
「主よ、だれも」と答えました。
イエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と言われました。
イエスは裁かなかった。このシーンだけを見ると、そう思われるでしょう。
私たちはイエスが、何のためにそこに居て下さったのかを知っています。
救い主イエスは、すでにこの女性の罪を引き受け、裁きを受ける役割を受け入れて居られました。罪を見逃し、裁かないのではない。彼女の罪は、すでに彼女の代わりに裁かれる主イエスが引き受け、彼女の罪ではなくイエスの罪として定められていたのです。
私たちの罪も、同じです。私たちは裁かれません。主イエスがすでに、裁きを受けて下さいました。 私たちの中に居て下さる という 主の約束は、が私たちすべて を知っ主の約束は、が私たちすべて を知っいて下さるとう約束でもあ ります。私たちの救い主は 聖霊 によって 共に居て下さり、
私たち以上にの体と心魂を知ってい下さり、 私たちの内にある傷を癒し、
全ての罪を受け止め 贖って下さる方 です。
「わたしもあ なたを罪に定めない 。行きなさい 。これからはもう、 罪を犯してはならない 」
私たちの中に居て下さる方と共にあ る幸いを感謝 し喜びつつ、進んでゆきましょう 。
お祈りい たします。
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