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「内に住む方を知る」

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ソロモン王は神殿を建てました。
神の民は自分たちめに 、神殿を建てたことがありませんでし。
彼らの先祖 アブラハムたちは、礼拝するびに 祭壇を築き天の神エジプトに移住奴隷となって時、彼らは神殿も 、祭壇も、
祭司も預言者ありませんでした。モーセと旅時、移動先々 には、
彼らの 所有する 土地では 土地では 土地では ありませんでした。 彼らは天幕を巡した 簡易式の 神殿を持 ち歩い ち歩い ち歩い てい て、その至聖所には神箱がありました。 移動した先で、
そのつど神殿を組み立て礼拝していた彼らに は、つの日か約束地神殿を建築すること は夢でした。
イスラエル 2代目の王ダビデは、歴誌上 17 章で神殿建設を志しまた 。
イスラエル王国は、
ダビデの時代から神殿建設為に資金を蓄え材料集め建築のため技術者を集て準備し きま。か建築のため技術者を集て準備し きま。か、ダビデの時代には 、ダビデの時代には 戦い が続き、 多く の血を流した この 時代人々 に、神は殿建設を許しませんでた。
ソロモンが 即位したのが歴代誌上 29 章。神殿が ようやく完成したの、
きょうの箇所、歴代誌下 7章です。 ソロモン王は 父ダビデの夢だった 神殿が 完成 したことを 神に 感謝 し、 祈りと 生贄を捧げました。
今日の箇所は 神が 神殿を受け入れた時、ソロモンと民に向って仰言葉です。
「今後、わたしはこの神殿を選んで聖別そに名とどめる」 。
聖別する、とはな方であ神のもして他区いうこ。
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ソロモンが王として、父ダビデのように常に神の前に居て、真心から神に仕え、
主の御顔を求めるならば、
例え、神が地上に天変地異を起こす時でも、民がこの神殿で心から祈り、
神の御顔を求めるならば、
神に従う王の王権は存続し、神に従う民の祈りを神は聞いて下さる。
神殿の建物よりも、神殿を建て、捧げた王と民の信仰を、神は見ておられました。
神は、もし、民が神に背を向け、神からいただいた律法を捨てて他の神々に仕えるなら、
彼らは神が与えた土地に住み続けることはできない。神によって抜き取られると、
警告されていたのです。
わたしの名のために聖別した神殿。わたしの名をもって呼ばれるわたしの民。
聖書で名 というと、その存在の全体を意味します。
イザヤ書に「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。」という言葉があります。神は人をご自分と対話する者とし
て造られました。例えばモーセは、神と「顔と顔を合わせて」会った人物です。
神に似せて造られた人は、その存在としての「個」を持つ者に造られました。
人間でいう人格を持ったもの。神の場合、神格や位格という言葉で表します。
神は人を、人形のような「されるがまま」の者ではなく、神であるご自身が、被造物であ
る人と、目線を合わせ人格を認めて向き合うために、一人一人が人格を持ち、
個人の存在の尊厳を持つ者として造って下さいました。神が人の存在を認めて、
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人が 自分の信じる対象をで選び、神 に近づき、 神から個人的に呼んで頂ける存在とし て、私たち人は造られのです。
きょうの新約聖書エフェソ信徒へ手紙。
エフェソという土地は、ユダヤ人から見れば異教のです。
ユダヤ人の、旧約聖書から変わない信仰を持ってる々は
エフェソ異邦人です。しか、
パウロたちの宣教によってイエス・キリト福音を聞き十字架による救いを受け入れた、新し神の
民です。そ点は現代日本人クリスチャンである私たちと 同じよう な存在です。救われた者、
神の子となる特権を与えられた者して、私ちは皆か名で呼ば存在す。
きょうの箇所にある祈り中で、 天の父なる神が 栄光と霊力をもって私たち強め下 さること、私たちの身体 からだで も財力 でも、知でも なく、
私たちの内なる人 が強められるようにと パウロは感謝しつ願っています。
内なる人、とは私たちの外から見え姿別に自身が持ってい魂し存在です。私た ちは 私たちの霊である 魂によって、 霊である神と交わ力を与えられていま す。魂の存在こそ、人として の、神の似姿部分であると言われています。
パウロは キリストの 十字架によって滅びから救われた私ち魂が 、
さらに強めれるた、私ちの内キリストを住まわせて下いと祈っす。
共に住んで下さるキリストよって
、私たちが愛しっかりとた根を持つ者な、
神の愛に立自分の内に神愛よる柱を持つ者と成らせて 頂く のです。
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神が私たちの心の内に住まわせて下さるキリスト は、 私たちの魂のために
神から遣わされる専属 のコーチ のよう な働きをされます。
私たちが、神の国 を目指 す旅をしてい る時、 魂は特別 な驚きの経験 をしてい るのです。
キリスト が共に居て下さるからこそ、
キリスト の愛は、 なんて広くて遠くまで行き渡 ってい るのだろう !
キリスト の愛は、なんて長くて途切 れることなく確実 に続いてい るのだろう !
キリスト の愛は、なんて高くて尊くて、力強い のだろう!
キリスト の愛は、なんて深くて、私たちの思いも及ばない ところに届いて下さるのだろう !
と、 私たちの思いと知識 を超えた力を感じることができるのです。
その力を、知れば知るほど、私たちがあきれ果てるほど、
私たちの心の筋肉 はどんどん強くなり、心の視力 はどんどん良くなり、
キリスト は私たちに神の存在 の豊かさを益々、 感じさせて下さるのです。
エフェソ の信徒 たちにこの手紙 を書いたのはパウロ です。
パウロ は、キリスト の愛を経験 してい たからこそ、この祈りができたのです。
すべて経験 し、その豊かな満ち足 りた喜びを知ってい たからこそ、
この恵みを経験 する人がもっと もっと 居てほしい から、この祈りがささげられたのです。
この豊かさを知った ら、神に従わない なんて勿体 ない !
信じなかった ら、神に抜かれてしまう 。神に捨てられてしまう 、と恐れる心より、
イエス・キリト の救いがもたらす恵みと愛の大きさへの喜びの方が、
どんどん大きくなるのです。
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私たちの内に住んで、私たちの魂を育てて下さる方に、もっと 期待 しましょう 。
神が教会 とキリス ト・イエによって 行われる、神の愛と御業 によって 、
あなた の隣にいる人が、あ なたの気にかけてい る人が、
全世界 の人々 が、心の内に住まわれるキリスト によって 、喜びと驚きと祝福 に充ちた時を
与えられる時が来ることを期待 し、信じ、願いましょう 。
お祈りい たします。