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「内側と外側」


 ファリサイ派というグループは、サドカイ派と共にユダヤ教の中の2大 会派です。
サドカイ派はエルサレムの神殿の権威で人々を指導していた人々で、今のキリスト教会で言うと、教会献身という、教会に住み込みで奉仕する信徒の献身のかたちが近いでしょう。
ファリサイ派は、聖書の真の神を伝道し、預言者や祭司、律法学者の指導を受けながら、人々を教えていた人々で、現代のキリスト教会でいう信徒伝道者に当たります。
パウロもキリスト教徒になる前はファリサイ派で律法の研究者でした。
パウロがテント作り職人だったように、ファリサイ派ユダヤ人は働きながら、
ローマ帝国の内外を移動して伝道しました。ユダヤ人は十人集まると1つ会堂を建てます。後にイエス・キリストの弟子たち、信徒たちがエルサレムを出て、伝道した時、
行く先々にユダヤ人の会堂があったのは、ファリサイ派が伝道した結果です。
この伝道の働きを、イエスは23章15節で、海と陸を巡り歩く と表現しました。
 人々に律法に適った信仰生活を教えるファリサイ派の信徒たちは、捧げものの規定や、神に誓いをたてる時の方法を細かく教えました。しかし、捧げものと共に奉げる、神への信仰、喜びや感謝を表すことを教えていませんでした。
きょうのマタイによる福音書23章には、外側をきれいにしても内側が汚い、と、
律法学者やファリサイ派ユダヤ人たちを注意しています。
彼らの皿の中に入っている汚いものは、強欲と放縦。強欲は欲が深いこと。
放縦とは、規律なく思うまま行動すること。
イエスがここで言われた皿とは、人間の心の内を表しています。
イエスは、強欲と放縦に満ちた心の律法学者やファリサイ派の人々を、不幸だと言います。
 彼らユダヤ人の指導者たちの生き方を、イエスは白く塗った墓に喩えました。
墓は、死者を葬る所。死と滅びの象徴です。
また、彼らが教えている旧約聖書の律法や預言者の書に出てくる人々を、彼らは
尊敬すべき信仰の先輩として人々に教え、墓や記念碑を大切にしていました。
預言者たちの墓は、彼らが神に従い、神の働きをしたことの記念碑ですが、同時に
彼らが民の不信仰と反抗によって殉教したことをも思い出させるしるしでもあります。
 律法学者やファリサイ派の人々は、真の神への信仰を伝道し、教え導く働きをしました。
彼らは神に従う自分たちの行動を人々に見せることによって、人々を指導しました。
しかし、彼らが見せていたのは、神に従う熱心な自分。律法に忠実でまじめな自分。
彼らの指導によって、神の民として、真面目に律法を守り、律法の規定通り
捧げものをして、指導者たちに教えられるままに神を礼拝してきた人々には、
心の内側に何があるのかを問うイエスの教えは、思いがけないものでした。
 十字架の直前、人々の前に連れ出されたイエスについて、罰するか否か、
問い直すローマ総督ピラトに、人々は「十字架につけよ」と叫びました。
イエスの死刑確定について、ピラトは「この人の血について、私には責任がない」と
言って、人々の前で手を洗って見せました。
そのピラトに向って、人々は「その血の責任は、我々と我々の子孫にある」と答えました。
神はイエスを、世の罪を取り除く神の小羊 救い主としてこの世に遣わしました。
神から遣わされた、預言者たちに従わなかった民、
自分達の目の前で、ユダヤ人の王として裁かれていたイエスを処刑することに同意し、
イエスの血の責任を自分たちが子々孫々まで負う、と言い切ったこの民、
心の内に罪と欲と偽善と不法をため込むばかり。墓のように心の内に死と滅びを満たしていた人間たちのために、イエス・キリストは十字架につきました。
 きょうの旧約聖書イザヤ書44章6節から、神がご自分こそが神であり、
他に並ぶ者はいない、と、あらためて宣言されています。
神が私たち人間の生活のために、与えて下さったものはすべて、尊いものです。
木を育て、木材を切り出し、用いる術を人間は与えられました。
木を燃やして暖まることも、その火で煮炊きして食卓を整え、体を健康に保つための知恵も、神は私たちに与えて下さいました。
与えられたものを用いて命をつなぎ、生きて行く中で、人は与えられたものを喜ぶ、
心を与えられています。でも、その喜びと感謝を奉げるべき相手を、取り違えてしまうのです。目の前にある生活のための道具である木材をとり、そこから自分達が創り出した
造形を、神としてひれ伏す姿が書かれています。
 偶像を、人間が人間の姿に似せてつくる、という13節の言葉。
人間は、神に似せて造られました。人間自身が、神の似姿なのです。その人間が、
自分たち人間に似せて、偶像の神を造り出す。そして、その像を礼拝する。
造り出す者の思いの奥に、真実な神を求める心が現れているようで、考えさせられます。
日本人の宗教心を表す言葉として、平安時代の僧の言葉が伝えられています。
「なにものの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼれる」
聖書にも、神が人間に永遠を思う心を与えられた、と書かれています。
人間の一生も、人の歴史も、永遠に続くものではありません。
私たち人間は、自分自身の限界を超えられない者です。限界の中で、永遠なる神の存在に繋がる、永遠への思いによって、自分以上の存在に憧れ、
自分には把握しきれない大いなる方への思いを、尊く、かたじけなく感じる。
それが人間なのです。
良いもの美しいものきれいなものから、最高であり最大である神を見つけ出そうと探求する私たちは、憧れ続ける尊い方を見出す手掛かりとして、
神が被造物を通して私たちに与えて下さる神の愛を感じることがあります。
けれど、私たちは、その神の輝きがどこから来るかがわからず、目の前にある物が持つ
力だと取り違え、その物を偶像にして崇める、という罪に陥っていたのです。
 まず、内側をきれいにせよ。イエスは、こう言われました。
被造物と、創造主を見分ける力は、主イエスの十字架による清めが必要です。
私たちの罪の身代わりとして、十字架に架かって下さった主イエスが復活と共に
与えて下さった約束によって、私たちの内側は完全に清められました。
神の霊が、聖霊が、被造物である私たち人をその宮として住まいとして、住んで下さる。
死によってすべて滅びにつながる有限な、墓のような存在であった私たちの内に、
命の源である神の霊が宿って下さるのです。
 ファリサイ派の学者であったパウロは、十字架に架かった罪人であるイエスを神として信じる人々を赦すことができず、迫害者となり、多くのクリスチャンは
彼によって逮捕され、投獄されました。
迫害の旅の途中で、復活したイエスに出会ったパウロは、イエスの宣教者となりました。
私たちの持っている新約聖書は、パウロの手紙が大半を占めています。
パウロはコリントの教会への手紙の中に、
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを
知らないのですか。」と、書いています。
心の器に聖霊を宿す者たちは、人々の道を照らす光を内から輝かす者。
私たちを用いて下さる主が、すべての人の前でご栄光を表して下さる、そのための器として、用いていただけるよう、祈りつつ従ってまいりましょう。
お祈りいたします。