きょうのマタイによる福音書10章は、12人の弟子を選んで遣わす、その時に
イエスが弟子たち語った教えの箇所です。彼らはイエスの教えを人々に伝え、病人を癒し、
悪霊を追い出す力を与えられました。
新約聖書は、イエスが復活して天に昇られた後で編集されたものです。イエスが地上からいなくなった後、弟子たちが伝道する時代になり、弟子たちはイエスの言葉を伝える働きをしました。その中で、彼らはイエスの言葉通り、彼らの働きが邪魔され、福音を語る
者たちが迫害され、逮捕されるという事態を経験しました。
イエスがご自身で語られた時、イエスの言葉を聞いて喜んだ人々と、反感を持ち
批判した人々がいました。イエスが祭司や律法学者たちとどんな議論をしたか。
弟子たちはすぐ傍にいて覚えていました。そして弟子たちは、師であるイエスと
自分たちが同じような経験をしていることに気づきました。
イエスの弟子たちや信仰を持った人たちは、イエスの預言と共に、イエスの約束の言葉を福音書に書き残しました。
現代社会、日本だけでなく世界で「いじめ」が解決の難しい問題となっています。
学校で、地域で、職場で、人間の集まりの中で、価値観の違い・考え方の違い・経験や
教育によって起こる人間関係の中のぶつかり合い、分類や差別はどこにでもあります。
自分の言葉が、他の人の耳には自分の言ったままの意味に伝わらない。
人間同士の言葉は、喜びが嘲りとして受け取られることもあります。配慮が差別に聞えることもあります。思いやりが、かえって攻撃に感じられることもあるでしょう。
言葉のすれ違い、思いが伝わらない哀しみは辛いものです。人の言葉、人の態度は
鋭い武器になることもあります。
武器は、攻撃するための道具です。でも、昔から人間が武器を持つのは、自分自身を
守るため。自分を傷つけ攻撃する、強い相手と戦っても負けないため、自分が傷つかないように、攻撃されて命を失うことがないように、人間は武器を造り、使ってきました。
イエスは自分が弟子たちを遣わす所は弟子たちの身が危険に晒されるところだ、と
知っていて、遣わしました。イエスの言葉を宣べ伝える働きには、救われる人が興される喜びと命の危険の両方があったのです。 イエスは2回、恐れるな、と言われました。
恐れるな。人間の攻撃は、あなたたちの肉体を殺したとしても、
魂を滅ぼすことはできない。
恐れるな。あなたたちの天の父なる神の御心でなければ、小さな雀の命さえも、
地に落ちて死んでしまうようなことは無い。
人間の力は、どんなに強いと感じても、魂を滅ぼすことも、生かすこともできないのです。
イエスは十字架に架かり死にましたが、3日目に復活し、弟子たちにその姿を現しました。
イエスは復活し、イエスの十字架と復活によって、肉体の死も、死んだ後のことも、
恐れる必要は無くなったのだ、ということを示して下さいました。
イエスの死と復活の目撃者となった弟子の1人マタイは、福音書を編纂するにあたって、
自分たちと同じように福音宣教の試練を経験している仲間たちのために、
宣べ伝えるイエスの福音の強さ、確かさを伝えるために、今日の箇所を書き残しました。
きょうの旧約聖書 箴言8章は、知恵が人格を持って、神が創造の業を行われた時の
記憶を語っています。箴言はソロモン王が書いたとされる知恵文学です。
聖書全体の基本テーマである、
「主を畏れることは知恵のはじめ」という言葉を、箴言全体の基礎として、
神を信じて生きる者の心と魂のありようを美しい言葉で書いています。
箴言8章で出てくる「知恵」という人は、神が天地万物を創造した時、自分もそこにいた、と語ります。知恵は巧みな者となり神と共に創造し組み立てました。
旧約聖書 創世記のはじめに、神の創造の業が書かれています。
創世記1章1節~3節は、聖書の中で最初に三位一体の神を描いている箇所です。
神は神の霊である聖霊によって地の面を覆い、そこに神の言である子なる神が、
神の創造の言葉として働かれ、光を始めとする創造の業が始まったのです。
きょうの箴言8章は、この創造の業を知恵と呼ばれる子なる神、新約聖書でイエスと
名付けられる方が、ご自分の目線で創造の業について語っています。
箴言8章30節は、教会備え付けの新共同訳聖書では、
「日々、主を楽しませる者となって絶えず主の御前で楽を奏し」 と訳されていますが、新改訳聖書では「わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた」と訳されています。
どちらも、間違いではありません。原語の聖書の言葉は、幅のある表現をしています。
私たちも喜んで楽しい気持ちの時、歌を歌ったり楽器を演奏したりします。
また、喜んで楽しんでいる人と共にいることは、たいていは楽しいものです。
8章31節は、「人の子らと共に楽しむ」とありますが、「人の子らを喜んだ」という
訳もあります。
三位一体の神は、創造の業を行い、神も人も、造られたこの世界を喜び楽しむ。
これは理想の姿というより、神が創られた世界の本来の姿です。
箴言が描き出す世界で、人は他の被造物と共に、神の御業を喜び、楽しみ、
その偉大さを畏れる知恵を持つ。互いの言葉に命の危険を感じて恐れおののくのではなく、
畏れうやまうべき方を仰ぎ、造られ守られ愛されている者として。
全てのものを造り出し、全てのものの命を与え、
また時に 命を取り去る方は、恐るべき方として君臨する強い神であり、
すべての被造物と共にご自分の御業を楽しみ、共に喜ぶ関係を持っていて下さる方です。
マタイ10章27節に、主イエスが私たちに暗闇で話しかける、その言葉を
明るみに出せ、屋根の上で言い広めよ、と書いています。
主イエスが語って下さる暗闇は、マタイが6章に書いているところです。
マタイによる福音書6章6節に
「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」とあります。
耳打ちされたこととは、旧約聖書 イザヤ書30章21節に書いてあることです。
「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。
「これが行くべき道だ、ここを歩け右に行け、左に行け」と。」
日々の暮らしの中、恐れにとらわれる時も、神と祈りによって語り合う時間は大切です。
1人きりの静まる時間も、また生活の中で行動しながら、歩きながら、
「主よ、助けて下さい。導いて下さい」と祈る祈りは有効です。
祈り、その中で受けた恵みを、自分一人のものではなく、語り伝えなさい。
恵みを分かち合いなさい、とイエスは言うのです。祈りの内に示されたこと、
叶えられた祈りも、聞かれなかったと思う祈りも、その一つ一つはたいへん個人的な
経験です。その人の苦しみ悲しみ、生活から分かち合われる言葉は、
守られた喜び、主と共にある者の喜びを伝え、聞く者にも大きな恵みとなります。
恐れおののくのではなく、主を畏れ信じ従う知恵を持って、感謝の日々を頂きましょう。
お祈りいたします。
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