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「神と契約する」

 「悔い改めよ、天の国は近づいた」洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、人々はやってきました。ユダヤ人たちは彼の言葉を聞き、素直に洗礼を受けました。ヨハネは人間です。人間である彼が厳しい言葉を語るのを、ユダヤ人たちは反発せずに聞いていました。
人々は彼を、預言者だと認めていたのです。神の言葉を預かり語る預言者ヨハネは、
自分は「荒野で叫ぶ者の声」だと言いました。ユダヤ人たちが小さい時から習い、
聞いていた預言者イザヤの書に「主の道を備え、その道をまっすぐにせよ」と叫ぶ人が出てきます。ヨハネは、自分は主のために人々が待ち望む救い主のため道をつくり、
準備する役割を与えられた者だ、と名乗ったのです。自分が荒野で叫ぶ、ということは救い主がもうすぐ来られる。救い主があなたたちを天の国に迎え入れて下さる。
準備しなさい。清い神から遣わされた方に会うために、自分自身を清めなさい、と
叫び、その叫びに応えて、人々は罪の告白をし、洗礼を受けたのです。
 私たち日本人はほとんどが家に帰ると靴を脱いで家に入ります。また、ほとんどの人が靴下などを履き、家に入る前に足を洗う習慣のある人はあまりいません。
昨日、教会の脇の道の舗装が新しくなりましたので、教会の周りは以前よりきれいになりました。聖書の時代、道路は現代のようなアスファルト舗装など無く、人々は裸足でサンダルのような履物を履いていました。道はありましたが、舗装されてなく土埃がたつ乾いた土がむき出しの道でした。人々は足を洗って家に入りました。
使用人のいる家では、足を洗うのはその家の最も低い身分の奴隷がする仕事でした。
ヨハネは後から来る方は自分より優れている。救い主のために、門口に座り、足を洗う奴隷の役割。その働きをする値打ちも無い自分。自分はその尊い方の道を備える者だ。
決して自分を卑下してではなく、ヨハネは役割を喜び、自分を表したのです。
 ヨハネはファリサイ派サドカイ派のユダヤ人指導者たちに「蝮の子らよ」と言いました。蝮は、もちろん蛇のこと。ヘビはアダムとエバの伝説以来、サタンを表すものとなっています。忠実に律法を学び神殿に仕え、人々を教え導いていた彼らに、ヨハネは、彼らが日常的に言っていた言葉から、あなたたちは「悔い改めた」とは言えない、と言ったのです。彼らは「我々の父はアブラハムだ」と言っていました。
アブラハムが、ユダヤ人の先祖であることは、彼らの大きなプライドでした。
 きょうの旧約聖書の箇所は、アブラハムが神から言葉をかけられた時のことです。
今日の箇所ではまだアブラムとサライ。「お父ちゃん」「お母ちゃん」という意味です。
彼らはメソポタミア地方 チグリス河とユーフラテス河に挟まれた豊かな地カルデヤのウルという大きな都市を出、神に示されたカナンの地 後のユダヤの地に来ました。
彼らは羊や牛を放牧する牧者で、近隣の国 たとえばエジプトと取引をし、
また移動し、というように旅を続ける人々でした。
 アブラムは移動先で進むべき道を選ぶ時、必ず祭壇を築き、神を礼拝しました。
アブラム夫妻はアブラムの弟の子ロトと一緒でした。ロトも牧者です。仲良く旅をしていた伯父と甥は、今やそれぞれの財産のため使用人同士がいざこざを起こす事態となっていました。もう、自分たち夫婦を頼らなくてもロトはやっていける。
アブラムはロトと別れて旅をすることにしました。
先に自分の行く先を決めなさいと言われたロトは、広い荒野の中、緑の生い茂る
オアシスのある豊かな土地を選びました。ロトには全く遠慮する様子もなく、また伯父に良い土地を譲ることも自分の進む方向を神に聞く様子も見えません。
ロトとロトの家族、財産は東へ旅立ちました。
 神の祭壇の前で、甥を見送ったアブラムに、主なる神は言われました。
あなたが居る場所から見える限りの土地をすべて、永久にあなたとあなたの子孫に与える、と。この時、神は東西南北すべて、と言われました。アブラムから土地を選べと言われたロトが選んだ東も、神はアブラムに与えたのです。
天地万物を創造した全能の神が、神の前に出たアブラムに「与える」という約束を下さったのです。アブラムは歩き回れ、といわれてその場所から移動し、行った先で再び、神を礼拝する祭壇を築きました。神は常に神を礼拝し、神に聞くアブラムに、あなたは多くの国民の父となるという約束をし、彼にアブラハム:多くの国民の父 、そして
サライにはサラ 諸国民の母と言う意味の名を与えました。
神の与える名は、役割です。神の前に出て、神に聞き、神と共に歩んだアブラハムは、ユダヤ人の父祖となりました。
 洗礼者ヨハネは、天の国が近づいた、と聞いて集まってきた人々に、「我々の父は
アブラハムだ」などと言うな。心に思うこともするな、と言いました。
神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことができる、と言いました。
ここでヨハネが言うのは、神にはできないことではない、というだけではなく、
石のように物言わぬ者、人々から顧みられず道端で踏みつけにされる存在からも、
神に聞き神の友となる存在を呼び起こせるという意味です。
「悔い改めよ、天の国は近づいた。」ヨハネもイエスも同じ言葉で宣教を始めました。
儀式として罪の告白をし、洗礼を受ける。それ自体に問題はありません。
問題は、罪の告白をした者、洗礼を受けた者が悔い改めたかどうか。罪を悔い、罪から離れたかどうか。ユダヤ人指導者たちは自分を「アブラハムの子」と呼ぶ者で
ありつづけました。悔い改めに相応しい者になれなかったのです。
 イエスはヨハネの所に来て「今は止めないでほしい」と言って、
へりくだって洗礼を受けました。救い主の家の奴隷よりも劣ると言っていたヨハネから洗礼を受けたイエスを、神は「わたしの心に適う者」と呼ばれました。
イエスは十字架への道を進まれました。
 神は人であるアブラハムと契約を交わしました。契約は信頼し合う者同士が、
相手に対する自分の信頼の責任を負うことによって成立します。
相手への気遣いより自分の欲を選んだロトは、神の契約の対象にはなりませんでした。
罪を告白しても悔い改めず、プライドを捨てなかったユダヤ人たちを、ヨハネはサタンの子と呼びました。 悔い改めそのものが契約なのです。
神を信じ神に聞き、神を信じた自分の信仰に、自ら責任を持つ。
自分自身の罪 汚れを告白し、汚れも罪もあるまま、自らを差し出す決断と決意への
責任を持つ。そうした者が悔い改める者なのです。
生贄の羊として十字架への役割を受け入れたイエスは、私たちの捨てきれぬプライド、捨てきれぬ罪を知る方です。
神は人である私たちと、ご自身の独り子の血肉を通して契約を結ばれました。
神は犠牲を払い責任を持たれます。
私たちも責任と信仰を持って、神を愛し、神の前に出、神に聞くものでありましょう。
お祈りいたします。