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「遣わされた方によって生きる」

今日の箇所で出てくる言葉は、聖書を知らない人にもよく知られている言葉です。
マタイによる福音書5章から7章は、山上の説教 山上の垂訓と呼ばれるイエスの教えに続く20の教えの中に、きょうの二つも入っています。
 「目には目を、歯には歯を」という言葉。旧約聖書 出エジプト記21章に出てくる言葉を振り返ると、「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」とあります。
一般的に日本人がこの言葉を引用する時、攻撃を受け損害を被ったら撤退的に復讐しなさい、という意味に使われることが多い印象があります。
でもこれは徹底的な復讐ではなく 目には目だけ。歯には歯だけ。自分に相手が負わせた傷以上の傷を負わせてはならない。同じだけの害を与える。同じ状態にさせる。  法律の用語としては 同害復讐法とか同態復讐法と呼ばれるものです。
喧嘩をしたら、仲裁者が本人たちを連れて病院へ行き、怪我した人物を医者が調べ、
怪我をさせた人間の同じ状態にさせることができるよう、イスラエルでは、病院の外科と歯科の技術がとても高い、と、ヘブライ大学を出た恩師に聞きました。
傷1つのために、相手を立ち上がれないほど痛めつけてはいけないのです。
復讐がその限度を越えた時、その憎しみは連鎖し争いの終わりは見えなくなります。
イスラエルの民は、民族として共に居ただけでなく、エジプトを出て、荒野を旅する
運命共同体。民の中で、仲間同士に争いの根を持ち続けていると群れは分裂し、やがて
互いに攻撃しあい滅ぼしあい、滅亡してしまいます。
モーセを通しイスラエルの民が受け取った律法は、群れを守り争いの根を断つ、
荒野で生き残るための策でした。
 イエスは山の上に集まった人々に、悪人に手向かうなと言います。
自分を殴ってくる人に殴り返すのではなく、右頬を打つ人に左頬を向けなさい。
求める者に与え、借りようとする者を拒むな。背を向けてはならないと言います。
敵を愛し迫害する者のために祈りなさい。 隣人とは誰でしょう。
敵とは誰でしょう。私は昨年、ここに引っ越してきました。
前に居たところでは特に親しい人でないかぎり、道で会ってもあまり挨拶を交わすことのない土地柄でした。ここは道で行きあう人と暑さ寒さ、天気など声を掛け合えることは感謝です。以前の町も、私の幼少の頃はこうだったのですが。
私たちが誰を敵と考え、誰を隣人または兄弟と考えたとしても、神の前でお互いは人であり神によって造られ愛され、生かされている者なのです。
人が自分に何をしたか。自分が人に何をしたか。自分が嬉しかったか、嫌だったか。
この人は自分に嫌なことをしたから、敵。この人は自分に優しいから友であり隣人。
そんな風に、私たちは自分の感情で他人を判断してしまうことが多い者です。
イエスはが敵を愛し迫害する者のために祈れと言ったのは、天の父の子となるため。
天の神は地上の全ての人の上に太陽を輝かせ、雨を降らせ、地上の植物を生かし、
私たちの命を永らえさせてくださいます。植物の一つ一つが、造って下さった神の手の業のままに枝を伸ばし、花開くように、私たちのきょうも、神の手の中にあります。
私たちは神が導き、見守っていて下さる神のご計画の中の今を生きているのです。
 旧約聖書 申命記は神がイスラエルに与えた律法の書です。
荒野を旅する間、民は自分たち以外の民族が住む土地をいくつも通りました。他の民族が真の神を知らず、自分たちでいろいろな占いをし、死んだ人や霊魂などに呪文を唱えるのを見て真似する者がイスラエルの中にも現れました。
神はモーセを通して、神はイスラエルの民の中から、預言者として神の言葉を語り伝える者を任命し遣わすことを宣言されました。モーセは、民の中から神が用いて下さる
預言者を立てて下さるように、神に願ったのです。預言者は神が命じることをすべて民に伝える働きをします。預言者が預かるのは神の言葉です。預言者に反発して語る言葉を聞かないなら、その人は神の言葉を聞かなかったことの責任を問われます。
預言者の言葉を聞かない人は、神と関係のない者になります。神が預言者を通して伝える、神の計画と関係ない者となります。神が民に対して注がれる愛と、関係のない者となります。神が世の初めから進めている、人間の罪の贖いの計画と関係のない者となります。聞かないこと、関心を持たないことの責任は重大です。
 預言者として神の言伝える者の責任は、さらに重大です。
神の言を語るために遣わされたのに、神の言を語らなかったなら、その預言者は死ななければならない、と書いてあります。
神は言によって天地万物をつくり、命を生み出されました。神の業は神の言によって
行われます。神の言は必ず神のお考えの通りに働き、神のご計画を実現します。
人の目にご自身を隠しておられる全能の神は、ご自身を人々に現わすために預言者を選び、人々は預言者を通して神の言葉を聞きました。
預言者が もし神に聞くことなく語るとしたら。自分の言葉や民の言葉、人間である
王の言葉を神の言葉であると偽ったなら、それは自分自身を神にして人々を偶像礼拝に導く、大きな罪を犯すことになる。預言者として役に立たないだけでなく、神を偽る、死に価する罪だったのです。
 神の言は、やがて救い主イエス・キリストとして世に遣わされました。目に見えない神を信じることのできなかった人々の前に、人間の姿をとってイエスは遣わされ、人々は自分の耳でイエスの声を聞き、イエスから教えを受けました。
イエスは人々に、求める者に与えなさいと教え、集まった5千人を越える人々は、
イエスの祈りを通してパンと魚を与えられ、満腹しました。
イエスは人々に、敵を愛し迫害する者のために祈れと教え、やがて十字架の上で、
「父よ、彼らをお赦し下さい。」と祈られました。
敵を愛し、迫害する者のために祈ることは、天の父の子となるためだとイエスは言われました。ご自分の言葉の通り 攻撃する者を拒まず、ご自身を鞭打つ者に抵抗しなかったイエス・キリストは、私たちの罪を知り、拒むことなく背負い贖って下さいました。
私たちが人を隣人と敵に分け受け入れない罪も、神に聞かず、神との関係を切り捨てる罪も、神の言葉が必ず成ることを軽んじ人間を、自分自身を神とする大きな罪も、
イエスの十字架で、十字架による罪の身代わりを信じる信仰によって赦されました。
イエスは神の独り子であり、神であり、神の言そのものです。
神の言は、必ず働き、必ず実現します。
十字架による罪の赦しを信じる信仰によって、イエスの言葉は実現し、
イエスが十字架で奉げて下さった神の子の命とひきかえに、天の父の子として、
神の子として生きる、命を私たちは与えられたのです。
感謝して、お祈りいたします。