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「慈しみ裁く王」

 羊飼いが羊とヤギを分ける。あるテレビ番組で、北海道で羊飼いとして専業で働いておられる方を見ました。羊の仕分け作業を実際に行っている所を、それまで私は見たことがありませんでした。羊が近眼で視界が1mしかないと、聞いたことがあります。
出荷する羊を確認する時、牧場からきた羊たちは、目の前で羊飼いが開くドアを通って走り込み、右に 左に選別されていきました。周囲を見回して止まる羊はいません。
飼う方の手際と、羊たちに向ける眼差しに感動しました。
 きょうのマタイによる福音書は人の子 つまり救い主が再び来られる時に行う裁き。
最後の審判の様子が書かれています。羊のように分けられた人間たちを、右も左も、同じチェックポイントで王は判断します。
王は右の人々に、わたしが「飢えていた時食べさせてくれた」「のどが渇いていた時
飲ませてくれた」「旅をしていた時 宿を貸してくれた」「裸の時 着せてくれた」「病気の時 見舞ってくれた」「牢にいた時 訪ねてくれた」と言い、左の人々に「してくれなかった」と言いました。あれはどういう意味でしょう?
「飢え」と「渇き」。これは「旅をしている時の宿」と併せ、生存の危機です。
荒野や砂漠の中のオアシスに住む人々は旅人をもてなします。イスラエルのように乾燥した朝晩の温度変化の激しい土地で、旅人をもてなさないことは、その人を見殺しにすることです。また、よきサマリア人の話のように、旅行中、盗賊に襲われたり、野獣に
襲われる危険がありました。旅人にとって宿る場所があることは安心安全を守れることなのです。
 「裸の時に着せる」のは、もちろん健康上の問題もありますが、これは経済問題。
「飢え」「渇き」よりも、より深刻な困窮状態です。
現代、日本のような公共の福祉の制度が確立されていない時代、命の危機を回避するための最低限の方法を持たない人にとって、対応してくれる人の存在はありがたいものです。それを「着せる」と表しています。
「病気の時」、誰かが自分の心配をしてくれる。これは本当にうれしいものです。
重い病気で、働けなくなり社会的な弱者となってしまうと、地域の人間の輪に入ることも難しくなり、孤立し、危険な状態になるのは今も昔も同じです。自分自身の健康や、人間関係へのリスクも解った上で、他者の命に関心を向ける。いま、コロナ禍の中で、特に知恵が必要であると感じています。
「牢にいる時に訪ねる」これは、他の項目と比べても実行が難しい。投獄される理由は、突然の事故や、何らかの手続き上の問題。そのほか、金銭関係や、時には政治や
思想信条の問題も考えられます。訪問することは、その人の仲間であると表明すること。その人への関心を表す勇気が必要です。
 聖書の中で罪とされる、姦淫、偶像礼拝、争い、怒り、泥酔などは行動した罪であり、信仰により罪を赦された自分を清く保つために、避けるべき悪い行いとして新約聖書に載っています。王が集められた人々に問うのは、人々に心当たりが無いについて。「いつわたしたちがそれをしたでしょう?」「いつわたしたちがそれをしなかったでしょう?」と語り掛けた王に問い返す、全く自覚していない事です。しなかったことの罪。怠慢の罪は たいてい無自覚で、その重さを軽く見てしまいがちです。王は飢えた者、渇く者、弱さの中で孤独になる人々に手を差しのべなかった左側の人々を呪う言葉をかけています。もし、王が弱り、飢えていたなら私は気づいた。彼らはそう言うかもしれません。弱っている人が王だったなら、私は助けた。そう言うとしたら、彼らの罪は減るどころか、むしろ重く増し加わります。彼らには、見えなかったのです。気づかなかったのです。弱い者、孤独な者に、彼らは関心が無かったのです。愛の反対は、憎しみや嫌悪ではなく無関心であると言われます。弱い者、困っている者、孤独な者に関心を持たず、自分の弱さ、悩み苦しみに対応する力も、失ってしまいました。
 右側に置かれた人々は、王から祝福を受け、父なる神から祝福されている。
あなたたちは神の国を受け継ぐものだ、と宣言されています。
人間の羊飼いは羊の1匹1匹の歩き方、餌の食べ方、毛の艶などを見て健康状態を判断し、羊たちが何を思って動いているのかを知る努力をしています。
父なる神は私たち人間を、まるで羊飼いが羊を見るように深く関心を持ち、愛し慈しみ、見守って下さいます。「私の兄弟であるこの最も小さい者の1人に」対して、
私たちがどう行動したか。私たち自身以上に、父なる神は私たちを愛し、関心を持ち、必要に心を砕いて下さいます。私たちを愛しているから、私たちの心がどこにあるか。私たちが何に目を向け、心を捕らえられているか、知っていて下さるのです。
 きょうの旧約聖書 ミカ書で、神は神の民イスラエルに、わたしはお前たち
すべてを集め呼び寄せ、羊のように牧場に導く、と書いてあります。
私ははじめ、13節の打ち破る者を、荒らす者、悪い者かと思ってしまいました。
でも、この方は集められたイスラエルに先立って進む方なのです。ミカが預言したのは、呼び集める方、囲いの中に羊を導く方が、新たに進んでゆくために、打ち壊す方を先立たせて下さいます。この方が打ち破り、他の者も打ち破って外に出、彼らの王が
彼らに先立って進まれるのです。
私たちの救い主イエス・キリストは、神と人が再び愛し愛される関係を取り戻すために世に来られた方です。イエスはご自身を良い羊飼いとして、私たちをご自分の牧場の羊のように導いて下さる方です。イエスは十字架で私たちの罪を贖って、罪赦された私たちを神の国に向って歩く道に導いてくださいました。イエスが十字架で命を懸けて打ち壊して下さったのが、神と人との間を隔てる罪の壁です。人の子、救い主
イエス・キリストは壁を壊し、先立って私たちを神の国に導き入れて下さるのです。
 私たちは羊のよう。目の前が見えず、共にいる仲間の飢えにも渇きにも気づかない、宿が無く裸で、病の中にあり、牢の中で孤独で、忘れられた者なのです。
救い主に感謝し、救われた喜びを持って生きる時、私たちは主の愛を知り、その愛を持つ者、神に関心を持ち、神に愛される人間を神と共に愛する者となります。
人の子が栄光の王座に着かれる時まで、イエス・キリストが約束通り再び地上に来られる時まで、私たちはイエスの霊である聖霊に導かれ、主が打ち壊し開いて下さった道を進みます。目を開きましょう。主と共に歩きましょう。
そして、悩む小さく弱い者を愛し、食べさせ、飲ませ、着せる者となりましょう。
再び来られる主は、私たちに「それは、わたしにしてくれたことなのだ」と
言って下さいます。                     
お祈りいたします。