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「家族として待つ」

 イエスはエルサレムの神殿の前で、終末の日のことをお教えになりました。
終末。この世の終わり。その時、いろいろなことが起こる。イエスの言葉を聞いていた人々は、イエスの言葉に驚き、ドキドキしていただろうと思います。
その日、その時が何時か、誰も知らない。天使も子も知らない。
今日の箇所で読み取れるのは、その天使にも神の子イエスにも知らされていないその時は、必ず来る、ということです。その日、人の子 救い主は「帰ってくる」。
人々の前にいて、話しているイエスが、「その日、わたしは帰ってくる」と言った。と、いうことは、その前にイエスは、いなくなる。
この話はマタイによる福音書24章。26章でイエスは逮捕され、27章で十字架に架かられます。終末の預言を恐れ、イエスが居なくなる、という話にドキドキしていた人々に、イエスは2つの喩えを話しました。
最後の日。それは、伝説のノアの箱舟のお話の時と同じです。あの時人々は、ノアたち一家が山の上に箱舟を造る様子を見ても全く気にかけず、日常の生活を続けました。
ノアの箱舟に喩えた終末の話は、今年2020年、急に私たちに実感を与えます。
そのことが起こるまで、何も気づかない。私たちも、昨年の終わりごろには、病気のために街が封鎖され、人々が家を出られなくなっているというニュースを聞いても、
それが自分に関係があるとは思っていませんでした。その病が、もうすぐ、自分たちの生活も価値観も、全てを変えてしまうとは全く思っていなかったのです。
イエスは、その日その時について、2人の男と2人の女の話もしました。
畑にいる者たち、臼を引いている者たち。これは、ごく普通の日常生活の中にある人々を喩えて言っています。一人は連れていかれ、一人は残される。この世の終わりを話題にした小説や映画に神様を信じていたら先に天国に行き、信じなければ残される。
そんな風に、このイエスの話を使ったシーンが出てくることがあります。
 でもイエスはここで、連れていかれた人がどこに行くのか、行く方と残る方、どちらが善いのか、話してはいません。突然、選ばれるということを話しているのではなく、全く気付かないうちに、あなたの身近に、それは起こるんだ、という話なのです。
目を覚ましていなさい。必ずその日は来るのだから、自覚して認識していなさい。
いつかは判らないけれど、わたし イエスは必ず、あなたたちの所へ帰ってくる。と。
 きょうの旧約聖書、ここも終わりの日について書かれています。
その日、世界中の国々はこぞって みんな一斉に主の神殿に向っていく。
主の神殿の山を、人々はヤコブの神の家 と呼びます。
ヤコブとは、アブラハムの孫。神からイスラエルという名を与えられた人です。
この人の12人の子どもたちの子孫は、やがてイスラエルの12部族となりました。
聖書の中でイスラエルとは、神に選ばれた神の民のことです。新約聖書まで聖書全体を通して、イスラエルという名は、ユダヤ人の先祖だけでなく、神の民、神を信じる人々を指して言う名前で、新約聖書からあと、イエスを信じる人々がクリスチャンと呼ばれた事と、ほとんど同じ意味です。
イザヤが神から示されて見た幻の中、世界中の国の人々がヤコブの神の家に行こう。
主が道を教えて下さる。私たちはその道を行こう。そう言って進んで行きます。
人々が使っていた武器、剣や槍は、農業の道具である鋤や鎌に作り直されます。
人々が行っていた、打ち壊す戦いは戒められ、互いに争っていた国々は裁かれ、主なる神によって戦いは終わります。農機具の中で、鋤と鎌。これは畑の土地を整備するために使われる道具です。争いつづけた人々の畑は、そのままでは何も育たない荒れた土地となっていました。鎌で、畑に勝手に育った雑草や雑木を取り除く。鋤で、土地は掘り起こされ、木の根や石など、作物の邪魔になるものは取り除かれ、土は空気を含み、
太陽の熱は地の深くまで届くようになります。争いから離れた人々の心は、主によって
耕され、神の言葉は人々の心に深く届き、根を下ろします。
神を信じる民、ヤコブの家。多くの国の民は、ここに集う新しい家族として集まり、
この家に集います。神の家。ここはイエスが人々に語った、神の国です。
人々は争いを止め、主の光の中を進みます。神の国についての良い知らせ、福音が照らす道、光であるイエス 人の子 救い主がいる、光の中を進む。
世の終わりは、恐ろしいものではなく、争いのない光あふれるものなのです。
 その日 その時は何時か、だれも知らない。
イエスは、泥棒が押し入る時を知り目を覚まし備えている家の主人の話しをしました。
家の主人が目を覚ましているのは、何の為でしょう?家を守るため。財産を守るため。それは、家族を守るため、ですね。その時を知っている家の主人は、家族を守るために、目を覚まし備えているのです。その日、その時が何時か、天使も子も知らない。
イエスは、父だけがご存知である、と言われました。イエスの父である神は、イエスを信じる信仰によって私たちをご自分の家族に迎えるために、独り子イエスを人として、地上に送り、私たちに神の国の福音を語らせました。そして、その十字架の死によって贖いを成し遂げられました。犠牲を払って、私たちを呼び戻して下さった父なる神は、その日 その時を定め、知っていて下さる。だから、私たちのため目を覚まし、守り、備えていて下さるのです。
 恐ろしいことが起こるから、目を覚まして待っている。それでは びくびくしているばかりで、少しも幸せではありません。怖がっていると動けない。楽しくない。
今年、どうしても明るく穏やかでいる時が持ちにくいのは、やはり、どうしても心配で、何をするにも迷ってしまう、現実があるから。厳しい毎日が続いていますね。
主の日。帰ってくる方は私たちの救い主です。命を懸けて、私たちのために神の国を
準備し、道を示し、ご自身の光で照らして下さる方です。家族が帰ってくる。
いつになるかはわからないけど、必ず帰るよ、と人の子イエスは言われます。帰って
くる家族のためなら、私たちの待つ時間は家族の為に、期待する時間になります。
家族なら、お疲れ様、お帰りなさい、と喜んで迎えます。嬉しかったこと、楽しかったことを話そう。帰ってくる家族が、喜んで帰って来られるように準備しよう。私たちは恐ろしい未来ではなく愛する家族を待っています。そして、毎日 準備して待つ私たちと、御言葉によって道を照らし、神の国に向って共に進んで下さる方。
それが私たちの救い主。この方の誕生を祝うクリスマスが近づいています。
この待降節 アドベントの時を、主の約束をもう一度、味わい知る時としましょう。
お祈りいたします。