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「親しき贖い主」

 「悔い改めよ。天の国は近づいた」これは、バプテスマのヨハネも、イエスも、
宣教の初めに言われた言葉です。
イエスが人々に語ったことは、天の国がテーマでした。今日の箇所に3つの方法で
天の国を探す人々が出てきます。天の国を探す と聞くと、私たちは「国」という言葉に引っ張られて、どこかの土地や島を探しに行く探検家の話を期待してしまいます。でも、イエスが話されたのは土地でも建物でも島でもありませんでした。
 一人目は、畑の中から宝物をみつけた人。二人目は真珠を扱う商人、3人目は網で魚を捕る漁師です。
畑を掘った人がみつけた宝はどんなものでしょう。彼は畑そのものを買い取って、
宝を自分のものとしました。一人で掘り出して持っていくには大きかったのか、自分のものにするには手間も時間もかかるものだと判断したのでしょう。
 高価な真珠を一つ、みつけた商人。きっと彼は真珠についてとても詳しい専門家で
あり、目利きなのでしょう。みつけた真珠の本当の価値を知っているからこそ、それまで手に入れた自分の財産すべてを、この真珠のために手放しても惜しくない。そう思ったのでしょう。畑の宝も、真珠も、みつけた人は「持ち物をすっかり売り払って」手に入れます。みつけたら、もう、それ以外は何も要らない。真剣に探していた人は、そのたった一つにすべてを賭けられる。そのたったひとつのため、彼は喜んで動くのです。
イエスはガリラヤという湖のほとりの町で宣教しました。ペトロやヤコブのように、弟子たちにもこの町の漁師がいます。天の国を喩える漁師の仕事は、
この町の人々には身近なものでした。湖に網を打ち、魚を捕る。網を打ってから引き上げ、網の中の魚を選り分ける。漁師たちは座って、網の中を見極めます。
 畑の宝も、真珠も、網の中の魚も、手に入れた人は時間をかけ、きちんと調べ、
その宝を吟味します。探し、よく見て選びます。網の中の魚の喩えで、イエスは
世の終わりも同じ、と言われました。そのため、選ばれ分けられるのは人間の
 良い 悪い と思ってしまいます。
私たちの時代の人々は、みんながある種の網を持っています。インターネットという
通信環境による網です。この網には、多種多様な情報や知識が入り込んで来ます。
世界中の人がそれぞれの方法で集めた知識を、情報の海に流し込んでいます。
調べる者は助けられることも多いのですが、時には間違った情報や悪意ある情報に出会います。ガリラヤ湖の漁師たちは、経験を通して良い魚を見分けました。
商人は、長年の経験と磨いてきた目で、高価な真珠を見分けました。
私たちはどうやって、宝の隠されている畑をみつけるのでしょう?
よい真珠のある場所にたどり着けるのでしょう?どうやって網の中にひしめくものの中から、天の国を見つけ出すのでしょう?
 きょうの旧約聖書の箇所には、まるで裁判の法廷のような光景が描かれています。
私たち人は、この裁判の席で間違いなく有罪です。私たちの背きの罪は重い、と、
自白しています。その上、私たちの罪の証拠は私たちの逃げ場を与えてはくれません。
罪状は、主なる神への偽りと背き。人は神から離れ去りました。神から離れた人間は、人を虐げ、裏切る者となり、嘘つきになりました。実際、世界の人間のありさまを
ニュースなどで見ると、どこまでが真実で、どこが不正なのか、いっそ 
すべてが間違いで、悪徳なのかと思うことが溢れています。
主なる神は、正義が行われていないことをご覧になり、正しい人も、罪人をとりなす人もいないことを見て、驚かれたと書かれています。
 この不正な人間に対して主は戦われますが、主が身に着ける武具が不思議です。
恵みの御業を鎧とし、救いを兜とされ、報復は衣、さらに熱情を上着とされる、と。
主の武具の中には剣がありません。傷つけ殺す武器を身に着けてはおられません。
主なる神のご存在を守り支えるのは恵みであり、救いなのです。
主の目に悪と見える私たちを主は傷つけません。主が上着とされる熱情。パッション。人を愛する主の心は、熱く燃え、人を救い恵みを与えて下さることに熱意をもって行動されるのが、主なのです。激しく栄光を表す主は、贖う者としてやって来られる。
人間の悪を見て、主は憤られます。しかし、その憤りのあまり、主は私たちを滅ぼすためではなく、愛して救うためにその霊を注がれます。主の恵みと救いは熱情をもって注がれる。その熱意から注がれた霊が、地上に救い主なる神、イエスを贖い主として送り込んだのです。
 イエスの時代の律法学者や祭司たちは、預言者たちの書物によって自分たちの日常について、神の御心を探り、またイエスと論争しました。
罪ある人の耳に届かない神の言葉を伝えるため、神は旧約聖書に書かれているように、沢山の預言者を任命し、ご自身の霊を人である預言者に注いで語らせました。
預言者たちは祖先の残した律法の書を学び、イエスの時代の律法学者たちは
預言者に学びました。神の言葉を語る専門家として先輩たちの言葉から学んだのです。
いま、聖書を学ぶ私たちには、聖書全巻が与えられています。新約の聖句を旧約聖書の光で読め。旧約聖書を学ぶ為に、新約聖書の光を当てよ、と、現代の神学校でも教えています。イエスが天の国を学ぶ学者を、倉の整理をする一家に主人に喩えたのは、
そういう、聖書の学びにつながることと思います。
 けれど、イエスが親しく語る神の言葉は、イエスが育った町ナザレでは人々の心に届きませんでした。ナザレの人々も、イエスの知識と奇跡に驚きました。けれど彼らは、
まさか神が、人として降って来られるなんてことが起こるはずがない。あの大工の息子が救い主だなんて、ありえない。自分たちの考え方、自分の経験に自分たち自身が騙され、彼らにはイエスの言葉が受け止められなかったのです。
イエスは人となり地上に来られました。私たち人間を罪から救うために、イエスは人として生きました。人の悩み苦しみ、弱さ、愚かさをよく知る方だから、神は人類の罪を完全に贖う世の罪を取り除く神の小羊として、イエスを地上に送ったのです。
 クリスマス、神は人間のかたちで神の子を送り、人間に愛され人間と親しく語る者としてこの世に生れさせて下さいました。神が神の側から、人に近づき、人と親しむことを望んで下さった。人の罪を怒るのではなく、熱情を持って救って下さる方です。
恵みを与え続け、私たちのために天の国の戸を開き、知識を超えて愛し、招いて下さる方に感謝と賛美を以て、神の子のご降誕を祝いましょう。
お祈りいたします。