· 

「働きが証明する」

 洗礼者バブテスマのヨハネは牢獄にいました。ガリラヤの領主ヘロデの結婚が、神の前にも倫理的にも正しくない、と非難したからでした。ヨハネは生まれる前から、救い主のために準備のできた民を整える働きをする人になる、と言われていました。ヨハネが人々に洗礼を授けていたヨルダン川にはイエスも来ました。イエスもヨハネから洗礼を受けました。ヨハネは自分の弟子たちにイエスを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と紹介したのです。「天の国は近づいた」神から遣わされる救い主が来られる。ヨハネは神の裁きの時が近づいたことを告げ知らせました。集まってきた人々は悔い改めて罪を告白し、洗礼を受けました。ファリサイ派やサドカイ派の宗教指導者も、ヨハネから洗礼を受けるために来ました。ヨハネは彼らに、「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな、と言いました。彼らは、自分たちは清い。自分たちはいつも神殿を詣で、律法の通り捧げものもしている。自分たちは神の友と呼ばれたアブラハムの子孫で、神に選ばれた民だ。と自分を誇っていました。しかし、自分たちがしている礼拝や捧げものをすることができない人々を見下し、清くない人々だ、罪人だと非難して差別していました。
ヨハネは自分を、預言者イザヤの書に書かれている「荒野で叫ぶ者の声」と名乗りました。
イザヤはこう預言しています。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』
人を見下し、差別する者の価値観、立場の違いによって優劣を決める判断に罪があることを人々に知らせ、全ての人を救う神の小羊の到来に備える。それがヨハネの役割でした。
領主ヘロデがヨハネを投獄したのは、弟の妻と不倫の末、結婚した行為をヨハネが責めたからです。宗教指導者にも領主にも、神の小羊が導く聖い天の国にふさわしい、
清い者となるよう、ヨハネは指導しようとした、その結果でした。
獄中でヨハネは、イエスが神の国を宣べ伝えていることを聞きました。ヨハネは弟子たちをイエスの所に遣わし聞かせた言葉は、マタイとルカ二人の福音書記者が同じ言葉で
記録しています。
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
これはヨハネの迷う心から出た問いだという意見と、弟子たちにイエスの福音を問わせ、イエスがメシアである。救い主である、ということを確認させようとした、という意見があります。私はイエスがこのあと「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われた事からしても、ヨハネにはその信仰のために、イエスからの助けと励ましが必要であったのだと考えています。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病の人は
清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返る。そして、貧しい人は福音を告げ知らされている。これは神から遣わされた救い主が宣教を開始された言葉につながります。
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」ヨハネは、やがて実現される天の国のために、
道を整える者でした。イエスはこの時すでに、言葉と業によって地上で、天の国の働きを始めておられました。イエスは神の子として、弱い者、小さな者、貧しい者のところに来て、天の国の福音を伝えておられた。イエスはヨハネに、ご自分はヨハネの準備した道をすでに歩いている、と、現実に起こっている奇蹟を通して、伝えようとなさったのです。
 きょう読んでいただいた詩編113篇は、はじめから終わりまで、すべて賛歌です。
ハレルヤとは、ハレル と ヤ二つの言葉から成っています。ヤとは、神の名であるヤハウェの略で、ハレルはみ名を讃えよ。合わせて「神の名を讃えよ」という意味になります。
神は神のご存在を人が喜び、その存在と御業を人が讃えることができるように、神の名を呼ぶ という方法を与えました。動物でも植物でも、海の向こうの島や空の星でも、その存在を知らないならば、そのものに名前はありません。
神は牧者として私たちの名を呼び集め、慈しんで下さるのです。
 主なる神は人間の限界を超えている方。その「超えている」ことを、詩編の賛美は人の価値観を通して表そうとしています。すべての国を超え、天を超えている方。私たち人間は知恵を与えられ、自分の限界を超えるために調べ学ぶ力を与えられました。
あの空の向こうに何がある?海の底に何がある?人は死んだ後に何がある?
与えられた知恵によって、人間は多くの事を学びました。その中で調べれば調べるほど、知れば知るほど、私たちは神の偉大さと人間の限界を知ることになります。
113篇6節以降、神はその偉大さを持ちながら、低く降って下さり弱いもの、乏しいものに目を向けて下さることが書かれています。私たちはありとあらゆる方法で、自分たちの限界を知らされます。地震、津波、火山の噴火、感染症の蔓延。私たちはたびたび打ち砕かれ、無力さや空虚さに打ちひしがれます。神が起こされる変化は人の手に負えません。その中で神は、意気消沈したものの心を知り、新たな天地を示して下さいます。
9節に子を持たない母という、人の世にある悲しみと絶望が書かれています。私たち聖書を与えられた者は、この問題について、サラ、リベカ、ラケル、サムエルの母ハンナ、
そしてバプテスマのヨハネの母エリサベツという、神からの解決と祝福の歴史を知っています。私たちの神は、全知全能にして私たちに起死回生の時を与えて下さる方です。
人間は、もともと土の塵を用いて創造されました。
 人間は、神のご計画を自分の置かれた場所からしか、見ることができません。
ヨハネは救い主の先触れとして、滅びゆく人間に悔い改めによる回復を宣べ伝えました。
ヨハネはイエスが神の小羊として神から遣わされたことを信仰によって知っていましたが、イエスを信じた者に与えられる大きな祝福を知らないまま、最後の預言者としての役割を終えました。ヨハネはその生涯を通して、清い神の御子が神の小羊として与えられること、人の持つ罪・汚れについて人々に自覚し悔いて立ち帰るよう教えました。
「女から生まれた者のうち」この言葉は、一見、すべての人類に該当するように見えます。
イエスは人間に、神の霊によって再び生まれる信仰による命を教えて下さいました。
イエスの十字架によって罪を贖われた私たちは、イエスと共に一度死に、イエスと共に神の霊によって復活した者。神を信じ救われた私たちの人間としての命は、終わりがあります。でも、神の霊によって、私たちの魂は命の道を与えられているのです。
ヨハネを否定するのではなく、彼の信仰による生涯を祝福し喜びつつ、十字架によって私たちに天の国の国籍を与えて、偉大な神の子として下さる。
神はご自身のご計画によって私たちに注がれる愛を、ご自身の遣わした方の生涯を通して、
私たちに示して下さるのです。
お祈りいたします。