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「帰ってきた」

新約聖書には4つの福音書があります。イエス・キリストの生涯と教えを書き記した書物で、この書物を書いたマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネは、それぞれの見たイエス・キリストを書き記しました。福音書の中には他と同じ出来事を書いているところも沢山ありますが、書かれた目的も読んでもらいたいと思う相手も違いがありました。
きょうお読みいただいたマタイによる福音書には、マタイだけが書き残した3つのことが入っています。東の国の学者が救い主を探し訪問したこと。ヘロデ王による2歳以下の男の子の殺害。幼子イエスとその両親がエジプトへ逃げたこと。マタイは自分と同じユダヤ人に向けて、自分たちの歴史と民族の記憶を持つ人に書いています。
 イエスが生まれたときの記録は、読むと「なぜ?」と思ってしまうことがあります。きょうの箇所で私がいちばん引っかかったのは、マリアとヨセフが幼子イエスを連れて逃げた先が遠いエジプトだったこと。そして、ヘロデ王が死ぬとすぐ「エジプトから呼び出された」ことです。
似た出来事がユダヤ人の歴史には何度かありました。
ユダヤ人の先祖イスラエル人は移住したエジプトで人数が増え、王はこの民族の男の赤ちゃんは川に投げ捨てよ、という命令しました。この時うまれた男の子の一人がモーセです。親はモーセを防水した籠に入れて川に流し、エジプトの王女が彼を水から引き揚げ、王子として育てました。成長したモーセは荒野に逃げ羊飼いをしていた時に神に出会うのです。出エジプト記4章に書いてあります。神はモーセに言いました。
「エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった」
神がモーセに言ったと同じような言葉が、今日の箇所で、マリアとヨセフに伝えられます。
「この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」
出エジプト記もマタイによる福音書も、話の流れがかなり似ています。
① 王の命令で、乳幼児が殺される。
② 殺される危険から、狙われている人を逃がす。
③ 殺そうとした王が死んでしまった、と神から聞いて、狙われていた人が故郷に帰る。
この条件に合う事は、このあともイスラエル人に起きます。
モーセは神に遣わされてエジプトに行き、イスラエル人をエジプトから解放するよう
エジプト王と交渉しますが、王はイスラエルを解放しません。そのため神は、幾度も
エジプト全体に災いを下し、最終的にエジプトの人や動物のうち兄弟で一番先に生まれた子ども「初子(ういご)」がみな、死ぬことになりイスラエル人は解放されました。
そしてイスラエルはモーセとともに約束の地に帰る旅をするのです。
 きょう読んでいただいた旧約聖書エレミヤ書31章は、イスラエルの王国が戦いに負け、人々がバビロンへ捕囚となって連れて行かれる時の様子です。
エレミヤは預言者として神から受けた、慰めと回復の約束を伝えて人々を見送ります。
この31章15節を。マタイは福音書に引用しました。
家族を戦いで失ったイスラエルの人々は嘆き悲しんでいました。エレミヤが人々を見送った祭司の町ラマと、嘆いている母の名としてラケルという名が出てきています。
これは族長イスラエルの妻ラケルのことです。エレミヤは族長の妻で、民族の母である人の名によって人々に寄り添い、愛する者たちを失い、生き残った家族さえも捕虜として引き離された神から預かった言葉を伝え続けました。いま見送ったあなたたちの息子は帰ってくる。あなたたちに希望ある、未来がある、と。
 私たちの年末年始は例年と比べると静かな日々でした。その静かさはまるでイスラエルに迫ってきた戦いの日のように、世界が抱えている病と社会の破綻への不安が追いかけてくる時となりました。私たちが対応を迫られているこの病は、治ったと判断されても後遺症をかかえて苦しむ方もある。簡単ではない。だからこそ苦しむ方悲しむ方に心を寄せ、エレミヤのように希望を語る者であり続けたいと思います。
マタイは救い主の誕生によって、悲しく理不尽な経験をした幼い子どもたちの家族に、
エレミヤが語った嘆くラケルの箇所を引用しました。は、ユダヤ人たちによく知られている預言者エレミヤの書によって、ユダヤ人たちにマタイは寄り添う心を伝えたのです。
 イエスとモーセを比べて考えると、共通点は他にもあります。モーセは川に防水した籠に入れられて流されました。この時、モーセの籠を見守っていた人がいました。
モーセの姉ミリアムです。
実はミリアムとマリア、モーセの姉とイエスの母は、時代の違いから発音や読み方が少し変わりますが、同じ名前です。危険を避けて逃げる赤ちゃんには、ミリアムがマリアが付き添います。モーセは王女によって水から引き揚げられ、王女の子になりました。
イエスは成長しバプテスマのヨハネから洗礼を受けます。マタイはイエスの洗礼の記事を書いた3章に「イエスは水の中から上がられた」という言葉を使っています。
洗礼を受けたイエスには聖霊が鳩のように降られ、
天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」という声が聞こえました。
水から引き揚げられ 王女の子になったモーセと、神に「わたしの子」と呼ばれたイエス。マタイはユダヤ人たちが、イエスが神の子だと気づくことができるよう、
注意深く言葉を選んだのです。
 イスラエルが経験してきた苦しみを、神が理解されている。神は全能。
イスラエルは神とともに歩んできた歴史から神がどのような方か、よく知るはずです。
聖書を読むと私たちは、イスラエルがどんなに何度も、神に背き神を悲しませたか、知ってしまっています。イスラエルが、実はとても弱く神から離れやすい人類の代表であることを、マタイはユダヤ人のひとりとして自覚していました。
けれど、聖書を与えられているからこそ、私たちは自分たちも神に相応しいとは言えないことを、知っているのです。マタイはイエスの12弟子の一人。十字架前夜、逃げてイエスから離れた者たちの一人です。自分の裏切りの経験があるから、ユダヤ人自身がイエスを神の子と知ることができるよう、イエスが神が遣わした救い主と知ることができるよう福音書全体にヒントを隠し、工夫を凝らしたのです。
 幼子イエスはエジプトから母マリアと共に帰ってきました。ヘロデ王から逃げるためだけでなく、神が人の人生に寄り添う方であることを人々に知らせるために。
イエスはご自身を信じた者が罪から解放されるために、十字架で死なれました。
この方の死によって、私たちは罪から解き放たれ、滅びゆく運命から逃げ出すことができました。罪という、神と私たちを隔てていた大きく強い存在は、イエスによって滅ぼされました。
モーセに神が言われた言葉「あなたの命を狙っていた人たちは皆 死んだ」は、
神が主イエスの十字架によってされた宣言と繋がります。
「あなたを永遠の滅びに繋いでいた罪は、もう力を失った。」
イスラエルが約束の地を目指したように、捕囚となったイスラエルのように、
主イエスを信じた私たちは復活の主が送ってくださった聖霊と共に、神の国へ
神の家族として、堂々と帰って行くのです。
私たちの苦しみ悩みに寄り添ってくださる方を信じて希望をもって行きましょう。
お祈りいたします。