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「わたしについて来なさい」

 ペトロ、アンデレ兄弟、ヤコブ、ヨハネ兄弟は、イエスの12人の弟子たちの中で最初に選ばれた人たちです。マタイによる福音書で12弟子が揃うのは10章です。

イエスが伝道を始められたガリラヤで、ペトロたち4人は漁師をしていました。

他の福音書では、イエスが集まってきた沢山の人々に、ペトロの舟からお話をされたことや、彼らと一緒に漁をした話が出てきます。マタイは、彼ら4人がイエスに呼ばれて、すぐ従ったと書きました。彼らがイエスから呼ばれ、従ったことが重要だったのです。

 彼らは、仕事中でした。豊かな漁場だったガリラヤ湖で、ペトロとアンデレは網を打ち、魚を捕っていました。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」イエスはこう言われました。

もし、彼らが漁師でなかったら、イエスは別な言い方でお呼びになったでしょう。

彼らはイエスの言葉で、自分たちが招かれている働きを知りました。

 漁師たちは魚の生態や漁場の天気などを考えながら、網で魚を捕ります。魚は、海の中 湖の中にいます。魚がいる場所を目指して、彼らは網を下ろし、水の上に引き上げます。

それまで魚が生活していた場所から、網によって引き上げる。そして漁師は魚を得ます。

「人間を獲る漁師にしよう」そういわれて、彼らは網を捨てて従いました。

イエスの言葉を聞いて、彼ら自身がそれまでの生活の場を離れたのです。ヤコブとヨハネは、船と父親を残して従った、と書いてあります。彼らはそれまでの生活も、収入を得るための仕事も、家族も、そこに置いたままイエスに従いました。

 きょうお読みいただいた旧約聖書エゼキエル書は、ユダの人々が王と共にバビロン捕囚となっていたころ、主なる神が幻の内に告げられた言葉です。

エゼキエルはバビロン捕囚の始まりから終わりまで、捕囚となった人々とイスラエルを攻撃した国々に対して神の言葉を語り続けた預言者です。エゼキエルの目の前で国は荒廃して行きました。イスラエルの民は預言者が語る言葉を聞こうとしませんでした。

エゼキエルは「自分の足で立て」という言葉を聞くとともに、聖霊が自分の内に入るのを感じました。神はエゼキエルを反逆の家に遣わす、と言われました。

あなたが話せば、彼らは聞いて従う、と言われたなら、預言者は喜んで民の前に出て行ったでしょう。神に背いてばかりいる民は、自分たちの国と戦争した敵の国の神を礼拝するようになり、神の怒りをかっていました。預言者として神の言葉を語りなさい、と命じられながらも、彼らは聞き入れない。彼らは拒む、と神はエゼキエルに言われたのです。

 聞かれることのない預言を語ることは辛く、悲しいことです。神がエゼキエルを遣わしたのは、神の言葉を伝えて従わせ立ち帰らせるためではなく、神が民の中に預言者を遣わした、ということを民が知るため。やがて語られた通りのことがおきたとき、預言者が語っていたことが神の言葉だった、と、民が知るようになる、と神は言われたのでした。

この厳しい役目を行うため、神は霊の力によってエゼキエルを立ち上がらせ、神の声を聴く力を与えられました。そして、民の前に彼を遣わし、エゼキエルは神の霊に力を与えられ、語る者となりました。エゼキエルは自分から語りたい、と願ったわけではありません。

彼も民と共に捕囚になっていて、バビロンの川のほとりで突然、神から選ばれ、一方的に

「わたしはあなたを遣わす」と言われたのです。

 私たちは自分の人生を自分で計画し、自分で選んで生きている、と思いがちです。

学生が将来の進路を探すとき、また仕事を得るために活動するとき、自分がしたいこと、

できることを考え、必要な技術や知識を身に着けるために努力します。でもそこには必ず、自分では選べないこと、予想できないことが沢山あります。

そこでの人間関係、それまで経験したことと違う仕事のやり方、考え方。自分で得意だと思っていることが、必ずどこでも上手にできるとは限らない。行った先には、そこなりの壁があります。きょうの聖書箇所のペトロやヤコブにも、エゼキエルにも、自分自身では選びようのない、試練や困難は沢山、ありました。私たちと、彼らの大きな違いは何でしょう。

 漁師をしていたガリラヤ出身の4人は、イエスに呼ばれました。

「わたしについて来なさい」

エゼキエルは、神が幻の内に現れて言われました。

「人の子よ、わたしはあなたを遣わす」

彼らを選んでその働きに招いたのは、神からの言葉、神の権威による呼びかけであった、ということです。

 イエスは弟子となった漁師たち4人と共に町々をめぐり、そこにあるユダヤ人たちの礼拝場所である会堂で、聖書を教え、神の国を宣べ伝える働きをしました。

そこで出会った人々はイエスの教えや神の国について聞き、病気などを癒して頂きました。

聞いていた人々はそれぞれのところへ帰って行き、イエスの評判が広まった、と書いてあります。神が遣す方、神から呼び出された方が神の言葉を伝える。

エゼキエルのように神の言葉を預って語る。そこには神の御計画があります。

イエスが人々に語った言葉は、人々によって伝えられました。

自分たちが見たこと、聞いたことを周りの人に話したのでしょう。イエスについて聞いた人々は、イエスのところに、病気や問題を抱えた人たちを連れてきました。連れて来られた人たちが抱えている問題は、どれも深刻で、病には当時、まだ治療法はありませんでした。イエスが語る教えと福音を聞いた人々は、イエスに期待しました。その期待は裏切られる事はありませんでした。イエスに期待した人々は、イエスを信頼し従う人々となりました。

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」そう呼びかけられてイエスに従った彼らの目の前で、イエスは力ある言葉を語りました。ペトロたちの目の前で、人々は福音を聞き、彼らが受け止めた福音は広がっていきました。ペトロたちの目の前で、イエスは

福音宣教という漁をしていたのです。イエスの言葉は、人々の中に広がりました。

まるでペトロたちが舟から降ろした網の中に魚がひしめいていた時のように、人々は遠くから近くからイエスのもとに集まってきました。

魚たちが海の中から水の上に、生活していた所から引き揚げられたように、イエスの言葉を聞いた人々、またイエスのところへ連れて来られた人々は問題を解決していただき、イエスに従う者となりました。

 ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ。最初の弟子たち4人は、自分たちを呼ぶイエスの

言葉に従い、生活すべてを投げ出して従いました。

エゼキエルは預言者の働きを与えられ、神は彼を通して民と共に居られること、イスラエルに神の言葉が語り続けられていることを示し続けて下さいました。

神の御計画は、時に人間には実現までに長い長い時間がかかるように思えます。けれど、

必ず、神の言葉は、働かれます。

イエスの弟子となった彼らは、イエスと共に福音を伝え続けました。

彼らと、彼らによって福音を伝えられた多くの人々の人生と魂は、イエスの言葉によって、その生活に変化を与えられました。

 イエスは十字架と復活の後、ご自分に従った弟子たちに命じられました。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

ペトロたちがイエスについていく中で、彼らを呼んだイエスの言葉が実現し続けたように、

今も、イエスの命令の言葉は働き続けています。

「わたしについて来なさい」と呼ばれた方は、「いつもあなた方と共にいる」と約束された方です。この方に信頼し、期待し、ついて行きましょう。

お祈りいたします。