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「天の国は近づいた」

 イエスは荒野で断食して祈ったあと、離れていたナザレに帰ってきました。

しばらくエルサレムあたりに居られたようですが、バプテスマのヨハネが、ヘロデ王に逮捕された、という知らせを聞いてヘロデの治めるユダの地から離れたのです。

幼いころ、ヘロデ大王と呼ばれた、今のヘロデ王の父に命を狙われたイエスは、マリアと

ヨセフに連れられてエジプトに逃げたことがありました。

今回のガリラヤへも、政治的情勢を見ての移動、という要素はあったでしょう。育った町、ナザレもガリラヤ地方にありました。ナザレから移動した理由はわかりません。幼少からのイエスを知る人たちの側ではなく、ガリラヤ湖に近いカファルナウムを選びました。

カファルナウムは、街道沿いの 人の往来の多い土地柄でした。

 きょうの旧約聖書は、イエスが住むようになり伝道の拠点にしたこのガリラヤについて、

マタイが引用した言葉の書かれている箇所です。

ヨルダン川の彼方、異邦人のガリラヤ。イザヤはこの土地をこう呼びました。

ガリラヤに住む人々は、闇の中に居た。イザヤはそう預言しています。

イエスが育ったガリラヤのナザレが、イエスの弟子となったナタナエルに

「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われてしまったように、ガリラヤは、

人びとから期待されない、良いイメージのない土地だったのです。

ゼブルン、ナフタリという2つの名前は、イスラエルの息子たち12部族の族長となった、

ゼブルンとナフタリの子孫たちです。イスラエルの12部族は、モーセと共にエジプトから脱出し、荒野の旅のあとヨシュアと共に、カナンと呼ばれた土地にやってきました。イエスの時代にガリラヤ湖と呼ばれた湖のほとりから北、シリア地方にかかるあたりを、ゼブルン族とナフタリ族が自分の一族の土地としました。もう一人の兄弟ダンの一族と共に、

イスラエルが神から約束の地として与えられた土地の北部を占有したのです。

 北イスラエルが、先にアッシリアに狙われました。アッシリアの王ティグラト・ピレセルは、イスラエルの王ベカと戦い、まず北部の町々を占領、その土地に住んでいた人々を

アッシリアに捕虜として連れて行き、アッシリアの人々をかわりに住まわせました。

その時、戦いのあった土地が、イヨン、アベル・ベト・マアカ、ヤノア、ケデシュ、

ハツォル、ギレアドそしてガリラヤとナフタリの全地方でした。

ギレアドもヨルダン川のすぐ東側。イスラエル王国の領土です。

この町々の人たちは、イスラエルの統一王国時代からの土地では一番先に捕囚となり、

彼らの住んでいた土地はアッシリア人のものとなりました。

後に南ユダもバビロンとの戦争に負けましたが、バビロンはアッシリアと違い住んでいた人全員を捕囚にすることはなく、南ユダの土地に残った人々は自分の土地に住み続けることができました。この時から、ガリラヤは異邦人が住む土地、神の民イスラエルの習慣も信仰も持たない人々が住んだ土地、汚された土地、と考えられるようになり

「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになったのです。

 南ユダの王アハズは、北イスラエルが負けてめちゃめちゃになった様子を見て恐れ、

アッシリア王ティグラト・ピレセルに貢物を贈って戦いを避けようとしました。

そればかりか、アッシリア王の御機嫌を取るため、ユダの地の神殿をアッシリア王を礼賛するための祭壇に造りかえてしまいました。結局ユダは、アッシリアと戦いませんでした。

しかし国の中はアハズが行った政治のために荒れ、人々は救いを求めていました。

きょうお読みいただいたイザヤ書は、アハズ王の治めるユダの人々に、神の救いに計画を

伝える預言です。 神を礼拝する神殿が、王によって役に立たなくなったユダで、人々は死んだ人の魂や、いろいろな霊の言葉を伝える、と言って商売をしていた占い師たちに自分たちの将来について、助言や指導を求めました。彼らはイスラエル民族の歴史や預言者たちの

言葉を記した、当時の聖書を学ぶことをしなくなっていました。

イザヤたち預言者は民からも王からも無視され、人々はどんどん、苦しむ方向へ、貧しく

飢える方向へと行ってしまい、神に頼るどころか神を呪う者となっていました。

そんな人々にイザヤが語った預言を、後にマタイが福音書に引用したのです。

 9章5節は、救い主誕生の預言として、クリスマスに用いられています。旧約聖書と新約聖書、全体を見ることができる私たちは、この箇所がイエス・キリストという神から遣わされた救い主なる神の子について書かれていることを知っています。

でも、イザヤがこの言葉を人々に伝えた時、人々がイメージしていたのは、アハズの後を

継ぐ新しい王として生まれる人でした。早く次の王が表れて、今の政治を変えてほしい。

そう願っている人々にとって、イザヤが語った「ひとりのみどりご」の誕生は希望でした。

 ユダにはヒゼキヤという、神のみ心に適う政治を行う正しい王が生まれ、人々は、新しい王が行う信仰の面での改革によって、ほんのひと時、平和を味わいました。

ヒゼキヤの後継ぎとなる王には、神のみ心を行う王はほとんど現れませんでした、

国は再び荒れて行き、やがてユダ王世夜勤の時代、ユダの神殿の宝物や器はバビロンに奪われてしまいました。カナンの地に栄えたイスラエル民族の国は滅び、王も王の家族も、政府の高官も兵隊も、職人たちもバビロンに捕囚として連れて行かれてしまったのです。

ヒゼキヤも、後継ぎの王たちも、イザヤの預言を実現することは出来ず、神の御心に適う王国は復活することはありませんでした。

 やがて現れるダビデの王座を継ぐ王について、イザヤは預言しました。

クリスマスのメシア預言の箇所として知られている9章5節は、ヘンデルのオラトリオ

「メサイア」の1曲になっています。その歌詞の英語を見ると、日本語の言葉以上に

イメージすることができます。

権威が彼の肩にある。は、the government shall be upon His shoulder

その政府、政治は彼の肩ににある、となります。

驚くべき指導者。は、Wonderful, Counsellorすばらしいカウンセラー、と訳されています。助言者、補佐役ですね。力ある神。永遠の父、平和の君は、

The Mighty God, The Everlasting Father,The Prince of Peace.

強大な神、永遠に続く父、平和の王子。イザヤの預言のすべての形容詞を現実に持つ方が、人間の王、ダビデ王家の後継ぎの中に実現することは、やはり難しいことだったのです。

歴代の王たちの中で、神の御心に適う者とされた王たちも、途中で慢心し、神の力ではなく自分の権力や実力のように思い堕落したり、短い生涯で終わってしまい、理想とする神の都を実現することが出来なかった。 イザヤは、ダビデの王座をとこしえに立て、そして支えるのは、万軍の主の熱意によって成し遂げられることだと言っています。

真に、人々の希望となる方は、神から来られる方です。戦いを終わらせ、すべての武器も

軍服も必要のない、真の平和を実現は、人間の力では無理なのです。

私たちに希望を抱かせ、永遠に至るまで揺るぐことのない正義と恵みを示してくださる方を、神は私たちを助け、助言し、力強くまとめて下さる方として与えて下さったのです。

 「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と言って、イエスはガリラヤで宣教の業を始められました。イエスの宣教は、天の神の国を紹介し、ご自身を信じた人々を天の国へ招くことでした。イエスは神によって遣わされ、神のもとから来られた方。

イエスは預言者たちとも、バプテスマのヨハネとも違うのです。天の国を知っていて、

天の国の主として、私たちを招待して下さる。

神の子である方が、ご自身で私たちを招くために、その道となって下さるのです。

神が「わたしの心に適う者。これに聞け」と言われたイエス。

この方からさらに、学んで行きましょう。

お祈りいたします。