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「弱さの中で」

 

 私は誇らずにいられません。パウロは11章から言い続けた自慢話のしめくくりに、この言葉で、一番大切にしてきた秘密の出来事を、この手紙に書きました。

私たちは新約聖書でパウロの手紙を沢山、読むことができます。力強く、私たちの信仰と罪を、深く考えさせるパウロの手紙で、新約聖書の大半が占められています。そのパウロを

コリントの人たちは「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言っていたのです。使徒言行録で、パウロの話を聞いていた若者が、眠ってしまって3階の窓から落ちたことがあったことを、思い出す人もあるでしょうが・・

キリストの福音を一番に大切に。キリストの力によらなくては、私たちには何もできない。

パウロはこれまで、そう教え続けて来ました。自分自身ではなく、イエス・キリストを宣べ伝える者として、手紙を書いて指導してきました。しかし書いても書いても、語っても教えても、なかなかコリントの人たちは理解しない。伝わらない。これまでパウロは、他のユダヤ人指導者のように自分をユダヤ人だ、アブラハムの子孫だ、神に選ばれた民だ、と自慢してきませんでした。パウロはその理由を、コリントの人たちに話すことにしたのです。

 パウロはわりと裕福なユダヤ人の職人の家に生れました。幼い時から、テント職人の技術と、聖書の律法の書を勉強して育ち、エルサレムで有名な律法学者ガマリエルの弟子として、若い時から認められいました。かれの律法への熱心さは、彼をキリスト信徒への迫害者にしてしまったほど。彼は沢山のキリスト信徒をその信仰のために逮捕しました。彼のせいで私刑にされたキリスト信徒はステファノだけではありません。彼が復活のキリストに出会って回心すると、彼は熱心にキリストの福音を学び、彼のこれまで学んできた律法の知識は、キリストを伝道する彼を助け、3回伝道旅行を行い多くの教会を建ててきました。

パウロが精力的なキリスト伝道者となったことに人々は驚き、今度は迫害を受ける側になり、ユダヤ人キリスト者たちからも妨害を受けました。

パウロはあのユダヤ人たち、またコリントの教会に来た多くのキリスト伝道者たちと比べても、自分は人として自慢できることが沢山ある、と、並べて見せはじめました。

自分は由緒正しいユダヤ人である。キリスト伝道者としてたいへん苦労し、投獄され、

鞭で打たれたり、石打の刑にあってぎりぎりで生き延びたり。また伝道旅行中に海で遭難しそうになるなど、よくここまで、と私たちが感心するほど、パウロは頑張ってきました。

 人としての苦難の経験だけでなく、パウロはキリスト伝道者となってから、神秘的な体験をしました。祈りの中で天の国を見るという経験をしたことを、彼はあえて、まるで自分

以外の誰かの体験を語るように書いています。この体験を彼は長い間、自分と神だけの秘密にしてきました。この時、パウロがどんな言葉を神から聞いたのか。彼はそれを「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉」と、彼の記憶の中だけのものにしています。

 多くの罪を赦され、ありとあらゆる苦労をしながら伝道してきたパウロは、神からも特別な体験を頂いた自分が自慢してしまわないよう、自分の体に神から「トゲ」を与えられた、と書いています。どんな病気だったのかはわかりません。人間として自慢できることも、

これまでの苦労も、その「トゲ」の苦しみからパウロを立ち上がらせることは出来ません。パウロは3度、祈りました。3という数字も7や12と同じく、ユダヤ人が完全数と呼ぶ

数字です。3回。それは徹底的な祈りで、願いでした。

パウロの生まれ育ちの由緒正しさ、律法学者としての知識の確かさ、そしてキリストを宣べ伝える者としての熱心さ。聞く人がみなパウロの努力を認めても、この自慢話はパウロの体から「トゲ」を取り去ってはくれません。パウロの苦しみに、パウロが持つ人間的自慢は、何の力も無かったのです。神からの答えは、苦しむパウロにとって残酷なものでした。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」

自分自身については、弱さ以外には誇るつもりは無い。キリストの福音を一番に大切に。パウロが、キリストの力によらなくては、私たちには何もできない、と、実体験を通して信じるようになったのは、この「トゲ」弱さを与えられたから。パウロの弱さ、パウロが与えられた「トゲ」は、キリストがパウロを通して働かれるために必要なものだった、と、

パウロは理解しました。

 きょうの旧約聖書に出てくるナアマン。彼はイスラエルの敵国の一つアラムの、王の軍司令官でした。重い皮膚病を患って苦しんでいたナアマン。アラムとイスラエルの戦いで奴隷となった少女がナアマンの妻を通して、自分の故郷にいる預言者のことを言うことができたのは、ナアマンの家にナアマンの妻の奴隷でさえも、自分の考えを主人に話すことができる、よい人間関係があったからです。彼はさっそく、少女の言葉をアラムの王に伝え、彼は癒しの望みのために、敵国の預言者であるエリシャを尋ねました。

 ナアマンのためならば、王もすぐに動いてくれました。でも彼は、怒って癒しのチャンスを失いそうになりました。少女の言った「サマリアの預言者のところにおいでになれば、いやしてもらえる」という言葉で、思い描いていたナアマンのイメージ。その通りにはことが運ばなかったのです。預言者エリシャは、はるばるアラムから来たナアマンたちに会いに出ては来ず、使いの者に伝言を託しました。エリシャに指定されたヨルダン川は、ダマスコの河と比べると貧弱でした。

 ナアマンが示された癒しの方法を受け入れたのは、今度は彼の家来の言葉でした。

軍事力によっても王の力によっても乗り越えられなかった病。

自分の勝手なイメージやプライドより、家来の言葉を聞き、謙虚に身をかがめて。

軍司令官としての軍服を脱ぎ、裸になり、川の流れに7回腰をかがめ、体を洗い、彼の体は小さい子供の体のようになりました。清められ、新しい人として生まれ変わったのです。

 パウロが与えられた「トゲ」、ナアマンがどんな力によっても取り去ることのできなかった病。神が与えたのは力ではなく、弱さでした。神ご自身が、その弱さを通して働かれ、

神の栄光が現れる。神は弱さを用いられます。

人として与えられている体力も知恵も、地位や権力も、また人々からの人気も、

すべて素晴らしい。信仰を与えられ、神から与えられた日々はすべて神からの祝福です。

その力を頂いた自分を語るのではなく、

「私が生きているのは神が祝福して下さったからです。」と、神を讃えましょう。

私たちを生かし、用いて下さる主を語り、弱さの中で働いて下さるキリストの力によって、

歩む者でありましょう。

お祈りいたします。