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「命を選べ」

 

 イエス様が、神の子が、悪魔の誘惑を受けました。イエスはヨルダン川で洗礼を受けたあと、お一人で荒野に行き、40日間断食されました。イエスを荒野に導いたのは霊。

洗礼を受けた時にイエスに降った神の霊、聖霊です。マタイはイエスが悪魔と問答をしているところを見てはいません。イエスが大切なことを伝えるために、彼に書かせたのです。

 イエスは40日間、ただ、食事をしないで荒野を歩き回っていたわけではありません。

聖書で「断食していた」と書かれているところは、断食祈祷をしていたことです。

毎日の朝昼晩の食事。食べる時間、料理をする時間、片づける時間。食材を手に入れるための時間。1日の時間の内のほとんどが、食事関係で終わってしまいます。

断食祈祷は、このすべての時間を祈りのために使うのです。なかなか40日もの時間を

断食祈祷のために使う 捧げることは難しい。ですが、私たちは、たとえば仕事に、たとえば趣味に、集中して没頭しているとき、食事や睡眠に時間をとられなければ!と残念に思うこともあるでしょう。仕事や趣味に向かうほどの集中力を、祈りと聖書の学びに向けることができたら、神様は私たちに何を見せて下さるでしょう。

祈りの時が終わり、ふと空腹を感じたイエスに、悪魔が語り掛けました。

「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ。」

荒野の40日。空腹。パン。この3つの言葉は、イスラエルが荒野を40年間 旅したことを思い出させます。イスラエルの民は自分たちをエジプトから導き出した神とモーセを信じられず、「我々をエジプトから連れ出したのは飢えて死なせるためか」と言いました。

神が苦しむ彼らを憐れみ、導き出して下さったのに、彼らの言葉は

「私たちはあなたを信じていません」という、不信仰を表していました。

彼らの先祖アブラハムは、行く先を知らずに神に従いました。アブラハムとサラは、

自分たちが高齢になっても、神が空の星を見せて「あなたの子孫はあの星のように多くなる」と言われた言葉を信じました。

 もし、イエスが目の前の石をパンに変えたなら。自分の空腹のために力を使ったなら。

イエスも、出エジプトの時のイスラエルと、同じ罪を犯すことになります。神が与えた聖霊も命も侮辱して不信仰と傲慢の罪を犯すことになります。

 イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えられました。イエスはすべてに神の意志と御計画がある、と答えたのです。

 次に悪魔はイエスをエルサレムの神殿の屋根の上に連れて行きました。

悪魔はイエスに、飛び降りて神が助けて下さるかどうか、試してみるように言いました。

ここで悪魔が引用したのは、詩編91篇11節12節「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び足が石に当たらないように守る。」という箇所です。悪魔が聖書の言葉を使う。これは、恐ろしいことです。聖書の言葉は神の言葉。聖書に書いてあることならば、間違いはない。と、考えてしまいがちです。聖書は誰でも読むことが出来る、書物の一つ。聖書を神の言葉として読むためには、神への信仰が必要です。悪魔のように聖書の言葉を自分の勝手に解釈することは危険です。イエスが悪魔に答えたように、神を試してはいけないのです。

 では、なぜ神を試してはいけないのでしょう。さきほどのパンと同じく、民はモーセに「飲み水を」与えよと詰め寄りました。出エジプト記17章でのことです。

その事件のあった所は、マサとメリバ 試しと争い と呼ばれるようになりました。

出エジプト記6章で、神はこう言われたのです、「わたしはあなたたちをわたしの民とし、

わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。」神は民と契約しました。神に従い、神の民となる、と。それなのに、民は神を試したのです。神が本当に自分たちのために動くのか。彼らは「主は我々の間におられるのか」と、神の存在を疑ったのです。

神は人と、契約したのです。人は神と契約したのです。

契約はお互いが相手を信用して はじめて成立します。相手を信じないならば、契約は成り立ちません。

悪魔は自分の勝手に詩編の言葉を引用してイエスを試みました。悪魔の話し方は、エデンの園以来、変わっていません。悪魔の勧める方法で生きることは、神を疑い、神を試し、自分を神の民失格と宣言することです。園を追い出された、アダムとエバのように。

 きょうの旧約聖書申命記は、イエスが40日間の断食の中で学んでいた、と考えられているところです。イエスが悪魔に答えた言葉は、申命記から引用されています。

神と民との契約を確認する言葉の中で、神は民の前に命と幸いの道と、死と災いの道を示されました。民が長生きする方法、滅びずに人数を増やす方法、約束された場所に行ける、神から祝福される方法は、あなたの神 主を愛し、御声を聞き主の道に従いなさい。です。主を愛しなさい、とは、いつもつも「神さま大好き!」と言い続けなさい、ということではありません。愛の反対は無関心、と言われます。愛するとは、好き嫌いとは違います。

神が私たちを愛してつねに見守り共に居て下さるように、神に関心を持ち、

神にいつも心を向けている。それが神を愛することです。

神のみ声を聴くために、神の声の聞こえる所に居る必要があります。主を愛さず主の声を聴かず主の道を歩まないなら。

神はご自身が造られた天と地を、ご自身と私たち人の契約の証人に立て、誓って、宣言されました。イエスが受けたもう一つの試みのように、

財産を得ること、世の中で成功することを目指すのなら、そのためなら悪魔を拝んでもいいと考えるなら。自分が契約した神以外を見るなら。他の神を礼拝するなら、どうなるか。

あなたたちは必ず滅びる。長く生きることはない。神ははっきりとそう、言われます。

 神が与えた命には意味があります。命が短く、若いうちに死ぬことは滅びではありません。滅びとは、永遠の死。神の国と全く関係のないものとなる、ということです。生きる、とは、命とは、神が用意された祝福に至る道を歩むことです。

 イエスが聖霊を受けてすぐ、悪魔の誘惑を受けた。そして、そのことをマタイとマルコとルカが聖書に書き記したのは、私たちに命の意味を知らせるためでした。

救い主イエス・キリストが、何のためにこの世に来られたのか。

「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とは、何のためか。

あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。

それが、まさしくあなたの命である。」と、申命記30章にあります。  

主イエスがこの世に来られたのは、私たちが命を得るため。

命の道で祝福を選び取るためです。

お祈りいたします。