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「赦す方の力」

 

 群衆は皆驚きました。少し前まで目が見えなかった人、口もきけなかった人が、目を見開いて声を上げたのです。悪霊に憑りつかれていたこの人の口から、癒された喜びと賛美の

言葉を聞いたのです。

群衆が言った「ダビデの子」これはユダヤ人たちが待ち続けた救い主を意味する言葉です。

群衆は癒されたこの人を見て、このような素晴らしい業を行う方はダビデ王の子孫に生まれるという伝説の救い主に違いない。神の約束が実現した、と言って大喜びしたのです。

群衆の中にはファリサイ派の指導者たちも居ました。群衆の中で、彼らは、群衆と一緒に

喜ぶことはありませんでした。彼らは言ったのです。この癒しが神からの力で行われたと思うな。このイエスという男は、悪霊の頭ベルゼブルを使っているのだ。ベルゼブルの力で、悪霊にこの人から出ていけ、と命じたのだ、と。ファリサイ派の彼らは、イエスを

神の子救い主とは認めていませんでした。彼らは癒されたこの人を見て、神を讃える群衆に怒っていました。悪霊が追い出されて、すぐ、興奮して賛美し始めるとは何事か!

みんな騙されるな!ファリサイ派の指導者としてのプライドが、彼らを焦らせていました。

 イエスは彼らの考えを見抜いた、とマタイは書いています。急に「悪霊だ、ベルゼブルだ」と騒ぎ始めた彼らに、イエスは丁寧に話始めました。

考えてごらんなさい。どんな国も、どんな家も、内輪もめをしたら成り立たないでしょう?

国の中で、内乱が続いたらその国は外国との戦争が無くても、成り立たずに滅びます。

また、家族の仲が悪ければ一緒に居ることが嬉しくない。同じ部屋に居たくない。

家族であることが、幸せでない。心がバラバラになってしまう。それは、人間だけのことではない。この人に憑りついた悪霊が、もし悪霊の頭であるベルゼブルの指示で出て行ったなら、頭は仲間の働きを邪魔したことになる。サタンは自分で自分を滅ぼすことはない。

 まだ病気の原因は解明されてはいないこの時代、病気や障碍は悪霊のしわざと考えられていました。病気やケガの後遺症などは、悪霊を追い出す祈りによって癒すものでした。

イエスが27節で言った、あなたたちの仲間とは、ファリサイ派などのユダヤ教指導者たちの中にも居た、病の癒しのための祈りをする現代の医師のような働きをする人のことです。

神殿や会堂に連れて来られる悪霊に憑りつかれた人たち。彼らのために癒しの祈りをする

指導者としての仲間に、ファリサイ派の人々が「悪霊の働きだ」などと言うことはありませんでした。実際に病気の人たちと向き合っている指導者たちは、自分たちの働きのために力を下さるのは神だとを知っています。癒され感謝して喜んでいる人の前で、この働きは悪霊によるものだ、と言うファリサイ派指導者を見たら、仲間は何と言うでしょう。

イエスはご自分を悪霊の仲間と言ったこの人に、あなたの言葉は、あなたの仲間の働きを

汚すものだ。あなたを裁くのはあなたの仲間だ、と言ったのです。

イエスの癒しの業をベルゼブルの業だと言ったこの人言葉を、最も悲しんだのはイエス・キリストです。癒された人の心に寄り添うことをしない。人としてこの世に生まれた救い主を認めない。このファリサイ派指導者は、イエスに反発しイエスを批判しているつもりだったでしょう。

イエスは、神の霊によってあの悪霊を追い出した。この癒しが起こったことは、神の国があなたたちのところに来たしるし。そう言ったのです。

イエスはバプテスマのヨハネと比べられ大酒のみの大食い、と批判されたことがあります。

これは人としてのイエスへの中傷でした。

イエスが行う業が神の業だと認めない、この指導者の言葉とは全く違うのです。

 神の霊が働いて、癒しが行われた。それをファリサイ派指導者は、癒しの業を悪霊の力によるもの、と言いました。イエスを通して働かれる聖霊を冒涜したのです。この批判によって、ファリサイ派指導者が、彼自身が、悪魔の働きをしてしまっていたのです。

イエスは聖霊に言い逆らう者は赦されない。そう言いました。

赦されない、というより、赦すことができないのです。聖霊の働きを認めないなら、

神の働きを認めないことになります。神の働きを認めない。神が救い主を遣わした救い主を認めず、信じない。彼は彼自身の救われる可能性を潰してしまっていたのです。

 詩編130篇は、救いを求める人が主なる神を呼び求める祈りのうたです。

深い絶望の中から叫ぶこの人は、自分自身が地上よりもさらに下の深い淵の底から叫び、

聞いてくださいと呼びかけます。

淵とは、川などの水の流れが淀んで、深くなった所を言います。

流れの深みには瀬もあります。淵と瀬、名前の違いは流れの速さです。淵は流れが緩やか。瀬とは違い、淵に流れ込んだものは、深い所に留まり なかなか出て行きません

130篇の人は、まるで淵の底にいるような気持で、悩み苦しみの流れの渦の中、浮かび上がることが出来ず、叫んでいるのです。

 私たちは天の父なる神よと呼びかけて祈ります。神は私たちを見ておられます。神が見たままの私たちの罪すべてに報いられたら、裁かれない者は一人もいないでしょう。

130篇6節の「見張りが朝を待つ」これは昔、城の守りのために夜、3交代制で見張りをしていた衛士(えじ)という兵隊の心の思いを書いています。

夕方から日没そして空に満天の星が出るころ、衛士は交代します。2人目が見張りを交代するのは夜中の2時から3時ころ。3人目の衛士は、日が昇りあたりが明るくなるころ昼の警護の兵士と交代します。6節は、2人目の真夜中を担当する衛士だそうです。

明るい日の光を見ることのない時間、夕焼けも、朝焼けも、そして明け方の青空も彼は見ることはありません。明けの明星が見え始める少し前、彼の勤務時間は終わります。

 救い主を待ち望んでいた人々、捕囚として故郷ユダを離れていた人々は、2人目の衛士の

ように、いつ終わるとも知れない、変化のない暗闇の時を経験していました。

ユダヤ人が捕囚の時を乗り越え、民族として滅亡しなかったのは、神の存在、救いの約束、神による贖いと回復を信じていたから。主に望みを置いていたからです。

 目が見えず、口のきけなかった人。その障碍の理由が悪霊だった。この人はその心も魂も、神のもとから引き離され癒しを、心から望んでいたでしょう。

まるで捕囚期のイスラエルのように、また深夜の闇の中で暁を待つ衛士のように、

いま、癒され目を開かれました。その喜びを言葉にすることができたのです。

さらにイエスはこの癒しが、神の国が近づいたことを知らせる、祝福のしるしになったと

言ったのです。この人は喜びました。群衆も喜びました。当然ではないでしょうか?

彼の人生の夜明け、彼の人生は淀む淵から引き揚げられました。

イエスを悪霊の仲間と言った人は、自分のプライドによって救い主の姿を見ることが出来なくなっていました。共に喜べなかった彼ら。彼らにも癒しが必要です。

 明けない夜はない、と言われます。私たちの毎日にも、淵のような時、2人目の衛士のような闇の時があります。人類すべてを罪から救うために、神が遣わされた救い主の力に望みを置きましょう。私たちが救われたのは、私たちが罪の中から癒され引き揚げられたのは、

神が遣わされた救い主、神の子イエス・キリストの力に依るのです。

お祈りいたします。