「人の子を何者だと言うのか。」イエスは弟子たちが人々のうわさを把握しているか、
質問されました。イエスは誰か、いろいろなうわさがありました。
イエスの伝道開始直前に、ヘロデ王に殺された「バプテスマのヨハネの生き返り」説。
他に、預言者エリヤやエレミヤ、また他の預言者説もありました。そこで、イエスは「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」お聞きになったのです。
すると、シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と即答しました。
彼の答えは、弟子たちの気持ちを代表したものでした。イエスは、ペトロに、あなたは幸いだ、と言われました。シモン・バルヨナ、ヨナの子シモン という呼びかけです。ペトロを実家に居た頃のように呼んで祝福しました。あなたがいま、私イエスを神の子だと信じているのは、天の父なる神によって教えられたのだよ、と。
18節は、いろいろな解釈をされてきた御言葉です。ペトロは、岩と言う意味です。
英語で、化石燃料である石油の事をペトロルと言います。この岩の上に。
それで、ペトロが教会を建てるのだ。ペトロに天の国の鍵が与えられたのだ、と解釈した方々は、ペトロを初代教皇として選ばれたと考えました。いま、ローマ・カトリック教会の教皇は266代目です。ここのギリシア語は、他の言語では判り難いのです。
「あなたはペトロ」と言われたペトロは男性名詞単数。石または岩は1つ。そのあと、
「この岩の上にわたしの教会を建てよう」は、女性名詞または複数。教会は岩石群の上に建つのです。イエスがその岩のような信仰の上に教会を建てよう、と言われたのは、ペトロだけではなく、ペトロが代表していた弟子たち。イエスを神の子と信じた人々、皆のこと。
宗教改革以降、そう解釈されています。
そして19節の天の国の鍵。地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは、
天上でも解かれる。これとそっくりな言葉を、イエスは18章18節でも言われています。
イエスを「救い主メシアであり、神の子である」と信じる人々の群れ。それが教会です。
イエスを信じる信仰を土台として、この群れは教会として建てられました。
イエスと言う土台。イエスと言う礎。神が遣わした、神に由来する礎。この強い土台が、
必要なのです。教会は揺らぐわけにはいかないのです。教会に、イエスは「つなぐ力」と「解く力」を与えられました。教会が繋ぐのは、神と人。神とこの世。
神と神に造られたものたちを繋ぐのです。
繋ぐ力。これは、私たちの生活の中でも、いろいろなところで必要です。
私は以前、公共施設をつくる会社に居ました。工事担当者に、どこの現場でも言われるのは、安全帯の装着です。高い木に登る時、ビルの工事の時。ワイヤーの強さ、ワイヤーと体を繋ぐ器具が壊れていないか、確認しないで工事して、もし、事故が起こったら労災事故です。その会社は注意を受け、ひどい時は指名停止。仕事をできなくなります。
繋ぐ器具の強度も必要ですが、まず繋ぐ土台がしっかりしていないと、ワイヤーの意味がありません。命にかかわります。
「繋ぐ力」「解く力」教会に与えられた力は、教会に集う一人一人も含む、この世の全て。
教会に授けられた鍵は、世の救いと滅びに関わる重要なものです。クリスチャン一人一人は弱い、一人の人に過ぎません。けれど、教会は信仰によって、神の子と、そして全知全能の神と繋がっているのです。
弟子たちの信仰を見たイエスは、救い主としてのご自身の役割を語りました。
受難と死、そして復活。毎年、イースターを祝う私たちが知っている救い主の贖いの業。
弟子たちにとっては、この時、はじめてはっきりと聞いた、衝撃の言葉でした。
さきほど、イエスの質問に即答したペトロの反応は、今回も迅速でした。イエスをわきへ
お連れして、いさめた。そういえば、この時、イエスは33歳。すでに40代だったペトロ。
ここでペトロが実はイエスを、年下の若い人と思っているように見えます。
この若者は何を言い出すか。彼はイエスの話に驚いて、こんなひどい話は聞くことも弟子たちに聞かせることも、如何なものか?と思った。忖度したのです。驚いて慌てるペトロに、イエスの反応は厳しいものでした。つい先ほど、「幸いだ」と言っていただいたばかりのペトロ。イエスが死ぬと考えたくなかった。ずっと、いっしょに居てほしい。
イエスは「サタン、引き下がれ」「あなたはわたしの邪魔をする者」と言われました。
きょう、読んで頂いた詩編86篇は、ダビデの祈りのうたです。
ダビデは油注がれ、王とされました。神から選ばれた者であり、王になるまで多くの戦いと悩み苦しみの中を通された人です。きょうの箇所にもあるように、彼は神を信じ、神がどのような方か、教えられて来ました。主は恵みの神、主は赦しの神、主は救いの神、主は偉大な方、主はすべての御業を完成される方、主は尊い、唯一の神。
敵との戦いの中でも。命を狙われて逃げていても。罪を犯し、神を裏切ってしまった時でさえ、神が主であり祈りを、呼び求める声を聞いて下さる方と知って、信じていました。
ダビデの足を、主は救いの岩の上に置いていて下さいました。詩編を通し、ダビデの治世の通して、ダビデは救い主に繋がるメシアの約束の記憶を伝える者となったのです。
主が私たちを置いて下さった場所で経験することに目をつぶることは、主の御心ではありません。恐れも、悲しみも、感じて当然です。でも、
ペトロは権力者や死を恐れ、イエスからサタン、惑わし滅ぼす者と呼ばれてしまいました。
マタイによる福音書10章28節でイエスは、体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。と、言われました。
命は、神から来ます。命を与えるのも、命を引き揚げるのも、神の御業です。
いま与えられている命も、心も体も、主に委ねましょう。
教会に与えられている、繋ぐ力、解く力。人々を、この世を、滅びから解き放つのも教会に与えられた力です。
救い主に出会った者、永遠の命を与えられた者として、与えられた十字架を主と共に担う者となりましょう。私たちが持つ信仰は、教会の一枝として、私たちの大切な人たちを神に
繋ぐための、大切な土台なのです。
お祈りいたします。
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