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「人の価値」

 

 日本人が、心を込めて選んだ贈り物を「つまらないものですが」と言って渡すと、外国の方が「つまらないものなら、要りません」と答える。そんな笑い話がありました。

日本人は、自分をアピールするのが苦手だと言われます。自分を卑下して、「私なんて」と、言うこともあるでしょう。たとえ心の中では、自分はできる人間!そう思っていたとしても。

きょう読んでいただいた旧約聖書には、双子で生まれながら性格も見た目もまるで違う兄弟、ヤコブとエサウが出てきます。兄のエサウは生まれつき毛深いアウトドア系の乱暴者。狩りが得意でした。弟のヤコブは物静かで頭のいい、色白のインドア派です。

財産は長男が弟の2倍相続することと、族長としての権限を持つことが決まっていました。

彼らは双子。エサウはヤコブより先に外に出たから兄。出てくる順番だけなのに!

弟ヤコブは何とかして自分の方が長男の特権を得たいと思っていました。エサウは、自分が

長男として扱われることを当然と思っていて、ヤコブほどには、長男の権利にも相続問題にも、執着がありません。

 難しい話をするとき、特に男性は空腹にさせてはいけない、と、話しておられた先輩牧師がいました。帰宅した夫にいきなり相談事をしないで、まず食事をさせて。空腹のままだと、

聞いてもらえないだけでなく、イライラされて喧嘩になりますよ、と。

ヤコブが豆を煮ていたのは、策略の内だったのかもしれません。目の前に美味しそうな煮物がある。いつも体力勝負で難しいことは考えないタイプのエサウは、ヤコブが突然 話題にした

長子の権利について深く考えもせず、簡単に誓ってしまいます。

 新約聖書ヘブライ人への手紙に、この時を例にした言葉があります。

ヘブライ人への手紙12章16節から17節「ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。 …エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、

事態を変えてもらうことができなかったのです。」とあります。

空腹でイラつくことが悪いのではありません。人としての権利、人としての価値を軽く扱うことが問題なのです。エサウは長子の権を、空腹を一時 満たす、

食べれば無くなるものと交換しました。

そしてヤコブは兄の、深く考えることのない性質を利用して騙し、兄とこの家の長子の権への敬意を持たず、自分の欲のための手段としました。やがてヤコブは家を出、兄の前から逃げることになります。

 きょう読んでいただいた新約聖書ローマの信徒への手紙には、キリスト・イエスのことを、

鍵か魔法の呪文のように書いてあります。霊の法則と、肉の法則がある。

キリストが私たちを、罪と死から解放した、と。

 1節に罪に定められる、と書いてあります。罪に定められるとはどういうことか。

人間が体の自然な欲求のままに生きることを、肉に従って歩む、と言います。

まるでエサウが自分の空腹に忠実で、将来の相続権より、今の1皿の豆を優先したように、

ごく自然に肉の思ったまま、感じたまま肉の欲求通りに生きること。それは、神に敵対する、

罪と死に繋がる生き方だ、と。

 パウロは7章で律法について書いています。律法とは、旧約聖書の初めの5巻の書物に書かれた神の民の掟です。神が罪を犯した人を、再び神の民とするために、神と人の間で交わされた契約と、その契約を間違いなく実行するための取り決めが書かれています。

パウロはこの律法が人の持つ罪を、罪が何であるかを明らかにした、と言いました。

律法があるから、人は自分が律法に定められた正しさを持っていないと解る。律法があるから、

人は自分が罪ある者であり、神の前に正しくない、死んで当然の存在とわかる。

 律法は正しく善いもの、人が神の前で、罪あるもの悪いものだとはっきりさせる掟なのです。命を下さる神に逆らう者、罪ある者は皆 死に、魂も滅びると決まっています。

だから私たちは、自分は罪がある。自分は律法にあるような正しい生き方はできない。

自分は死んで当然、滅びて当然。自分は罪深いものだ、と、律法によって自覚するのです。

 そこでパウロは、特別な鍵を神が下さったことを人々に教えたのです。

その鍵、神が与えて下さった唯一の解決策が、キリスト・イエスなのです。

イエス・キリストは、神の子ですが、人としてこの世に生れました。神の子であって罪の無い方ですが、罪以外は完全に人と同じに生きて、人と共に生活し、人々に神の国の良い知らせを語り、教えて下さいました。

神の子イエスの体、その肉によって、神は罪を罪として処断されたのです。

 人の罪のために、イエス・キリストは十字架で罪を贖って下さった。という言葉は、聖書を読むたびに出てきます。何度も聞いて、判っていることですが、もう一度、言います。

神は、神の子イエス・キリストを肉体を持つ人間としてこの世に送り、罪のために律法が定めた善い生き方ができない、滅びると決まっている人という存在の運命を完全に変えて下さいました。神がイエス・キリスト神の子を十字架で殺すことによって、人が持っている罪と、

罪による滅び、という運命を、買い取って下さった。イエスの十字架は、人が神に対して持っている魂の借金である罪を、神がご自分の独り子を「支払う」ことによって完全返済した、ということなのです。私たちは、神がご自身の独り子イエス・キリストを代価として支払っても、

取り戻したい存在なのです。キリストはご自分の死と復活によって、人がご自身を信じ、滅びることが無いように、聖霊によってキリストの霊を人の内に住まわせてくださいました。

私たちは死と滅びの代わりに、命と平和を頂いたのです。

 罪から解放されて私たちは、エサウのように大切なことの見分けのつかない俗悪さからも、

ヤコブのような自分の欲のために兄弟を騙すような醜悪さからも、清められ神に従う者として頂きました。私たちは、この救われた命を、どう、生きて行けばよいのでしょう。

 イエスは、幼子のようにならなければ、神の国に入ることは出来ない、と言われました。

私は母教会の教会学校にいた、とても可愛らしい一人の女の子を思い出します。

とても綺麗な子ですが、降り階段が苦手で、いつも一番あとになる子でした。彼女は「待って!」というかわりに言いました。「みんな、見て。私が降りるわよ!」そしてタカラジェンヌのように堂々と、自分の速さで降りたのです。みんな笑って、応援しながら彼女を見ていました。自分がを受け入れられる。みんな一緒に居てくれると疑わない彼女は、遅れることを恐れませんでした。

私たちは、神が独り子を身代わりにするほど、神にとって、命がけで守る価値のある、

一人一人なのです。祈りましょう。私たちの毎日を、神にそのまま、お話ししましょう。

神は私たちを愛して、私たちを大切に見守っていて下さいます。

お祈りいたします。