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「証しする民」

  復活されたイエスの昇天を見た人々は、エルサレムで聖霊を受け、教会に集うようになりました。イエスと共に暮らしていた使徒たちから、イエスの福音を聞き、賛美し聖餐を共にする人が増えていきました。それと同時に、教会が迫害される時代も始まっていました。

人々の世話係として選ばれた7人の1人ステファノは最初の殉教者となりました。

12使徒の一人ヨハネの兄弟ヤコブを殺したヘロデ王は、ユダヤ人たちに喜ばれたのを見て

ペトロも殺そうとし、逮捕されてしまいました。ペトロは天使によって助け出されましたが、イエスを信じる人々は迫害を避けるため、エルサレムの教会から逃げて行きました。

ただ、彼らは行く先々でイエスの福音を伝え、イエスを信じる人は増えて行きました。

 パウロがイエスの福音を伝え始めたことは、人々を驚かせました。彼はファリサイ派の若い指導者として、イエスを信じる人々を迫害していた側だったからです。復活したイエスが迫害の旅の途中で彼に出会い、彼はイエスが神の遣わされた救い主だと知ったのです。

彼パウロはアジアのタルソスというギリシア語文化の町で育ちました。十字架と復活の福音を知ったパウロは今度は狙われ、迫害を避けて、一旦、故郷タルソスへ帰っていました。

イスラエルの北、シリアのアンティオキアに、イエスを信じる人々が増えてきた、と

知って、エルサレム教会はバルナバを派遣しました。シリアに住むユダヤ人たちはギリシア語を話します。パウロの語学力、律法や旧約聖書の知識、そして、以前は迫害者となったほど熱心な神への信仰が今、必要でした。バルナバは、パウロを迎えに行きました。

バルナバとパウロはアンティオキアで丸1年、指導しました。聖霊はこの教会の人々が、パウロとバルナバが居なくても教会を守り育てて行けると認めて、二人を送り出すよう、

示しました。パウロとバルナバは人々の祈りを受けて伝道旅行に出発しました。

 二人はまずバルナバの故郷キプロスで伝道し、さらに船でアジアの町ピシディアに渡りました。ここも町の名前はアンティオキア。彼らを送り出した所と同じですが、バルナバにもパウロにも、初めての土地です。パウロが迫害を避けて行ったタルソスよりもさらに遠く、だれも彼らの事を知りません。パウロがイエスを信じる人々を迫害していたことも、

イエスが神の子救い主として世に来られたことも。イエスの十字架刑になったいきさつも。

 ここにもユダヤ人の会堂がありました。ユダヤ人は礼拝のために、男性が10人居たら

一つ会堂を建てるように指導されています。パウロたちは会堂に集まってきたユダヤ人たちと一緒に安息日の礼拝をしました。

会堂長に二人は、何か話を聞かせてくれ、と頼まれ、この町の伝道のチャンスが来ました。

 ピシディアはエルサレムから遠い。神殿のある土地から離れたこの土地のユダヤ人たちは、エルサレムの人たちに劣等感を感じていました。その彼らに、パウロはユダヤ人の先祖の歴史から語り、26節「アブラハムの子孫の方々」と呼びかけました。神の友アブラハムは、ユダヤ人が誇り大切にしている先祖。この町の人の民族を愛する心に訴えたのです。

ユダヤ人たちが尊敬する王ダビデの子孫に生れた救い主イエスを、エルサレムの人々は認めなかった。エルサレムの指導者は、大切な聖書の言葉を理解しなかった。エルサレムの神殿でいつも礼拝している人々が、救い主を認めなかったですって?さらにパウロは、

エルサレムの人々はローマの総督ピラトによって、イエスを処刑した、と語りました。

ユダヤ人が異邦人の総督と手を組むなんて!ピシディアのユダヤ人は驚きます。

神はこのイエスを死者の中から復活させ、イエスは沢山の人の前に姿を現した。

復活のイエスに会った人々はいま、民に対してイエスの証人になっている。

力強い言葉は、この地のユダヤ人たち、神を畏れる人たちを力づけました。

 きょうのイザヤ書65章は、前半に裁きと滅び、後半に新しい創造と祝福が書かれています。前半、1節から15節に書かれている、倒され、屠られ、飢え、渇き、恥を受け、滅ぼされるという裁き。主を求めず主を捨て裁かれた民、汚れた民が受けるこの裁きは、私たちの主イエスが十字架で受けて下さった苦しみの一つ一つ、主の死と滅びに一致します。

十字架で屠られ血を流した主は「渇く」と言われました。イザヤがに語ったように、主なる神は人々の罪と汚れを裁かれました。ただ、その裁きを受けたのは民ではなく主イエス。

身代わりとなった救い主だったのです。

65章の後半、祝福された僕は、新しい異なる名を与えられます。

シリアのアンティオキアで、人々はクリスチャンと呼ばれるようになりました。主イエスの福音を信じた人々はパウロとバルナバの指導を受け、キリストの恵みを賛美していた声が人々の耳に残ったのでしょう。主の名を呼び、エルサレムから散らされた人々は、離れた町の人々にもイエスの福音を伝えました。イザヤは、神の民とされる者の永遠の命の福音をまだ知りません。メシアの来臨によって与えられる救いがどのようにして与えられるか。

神の国に繋がる栄光の福音を知らない預言者は、主に示された祝福を「若死にすることはない」という言葉で書きました。預言者の想像を超えた主の死という御業によって、罪と滅びが無効となりました。死の恐怖も滅びもない。救いを受けた者たちは祝福されています。

 イエスの死と復活は「遠いエルサレムで起こった事件」ではありません。

パウロとバルナバは、この福音を伝えるために来ました。聞いた人々は喜び、町中の人に

彼らの伝えたことのすばらしさが知らされました。次の安息日、この町中の人々が集まってきました。この町全体に、福音が伝わったのです。

 私は中学2年のクリスマスに洗礼を受け、親族中一人だけのクリスチャンとなりました。洗礼を受けて振り返って教会に集まっている人々を見た時、私は「ああ、ここにいる

クリスチャンの人たちがみんな、私の兄弟や姉妹、家族なんだ」と、嬉しく思いました。

 パウロもバルナバも、福音に出会った時、イエスと共に生きた使徒たちや弟子たちが

沢山、教会に集っていました。私たちはいま、この教会で主を信じる者となっています。

世界中で日曜日、礼拝が行われています。聖書の中にも、キリスト教の歴史の中にも、日本の歴史、私たちの教会の歴史にも、主を信じて、天の国に帰った先輩たちも沢山、います。

私たちがイエス・キリストの十字架と復活を知り、信じたこと一つ一つの経験は、

小さなものではありません。一人の人の命と魂を天の国に繋ぐ、大きな事件です。

クリスチャン一人一人に起こった大きな事件は、教会を造り、天の神の家族として大きな

群れとなる力です。私たちはキリストの名で呼ばれる者。主を証しし伝える民の1人です。

 

お祈りいたします。