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「建て直そう」

 

 マルタは言ってしまいました。「あなたがここにいて下さったら、ラザロは死ななかったでしょうに」ラザロとマルタとマリア。3兄弟とイエスも弟子たちも親しくしていて、

ベタニアにある家をよく訪問していました。ラザロが病気だとイエスは知っていたのです。

イエスは「あなたの兄弟は復活する」と言いました。マルタは「終りの日の復活することは存じております」と答えました。イエスはマルタに言いました。イエスとマルタの会話は、嚙み合っていません。マルタが絶望してしまっているからです。

35節に、聖書の中でここにしか出てこない言葉があります。 イエスは涙を流された。

人々はイエスの涙を、大切な友ラザロを失った悲しみの涙と思いましたが、イエスは憤って興奮していました。マルタは「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると信じています。」と言いましたが、ラザロの墓を塞いでいる石を「取り除けなさい」と言うイエスに、「主よ、四日も経っていますから、もうにおいます」と言うのです。

イエスは「信じている」と言いながら、神の御業に期待しないマルタとマリアに、憤っていました。ベタニアの人々が、イエスが行った奇跡を知りながら、ラザロの死を諦めてしまったことに憤っていました。イエスはもう一度「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」とマルタに言いました。栄光が見られる。神が働いて下さる。神の御業が行われる。「父よ、わたしの願いを聞き入れて下さって感謝します」。

そして、叫ばれたのです。「ラザロ、出て来なさい」と。だれも期待していなかった、

もう死んでしまった。いなくなってしまったと諦めていたラザロを、イエスは呼び出されたのです。

 きょう読んでいただいたネヘミヤ記に、マルタたちと正反対の態度でエルサレムに帰って行くネヘミヤの様子が書かれています。イスラエルの人々は捕囚として連れていかれたバビロンで、再び敗戦を経験しました。バビロン帝国はペルシャによって滅び、イスラエルの人々は今度はペルシャ帝国の捕囚となりました。

ペルシャ帝国の王キュロスの治世、ユダヤの人々は故郷に帰る赦しを得ました。

ネヘミヤはエルサレムの神殿の再建は進んでいる、故郷は復興した、と思っていたのです。ところが、故郷とペルシャを行き来するネヘミヤの兄弟が、故郷の町は破壊されたまま。

神の都と呼ばれるエルサレムも荒廃し焼かれたままになっている、と、知らせたのです。

神の都が、神殿が放置されて荒れたままとは!ネヘミヤは、故郷の工事が自分たちユダの民の敵によって邪魔され、中断されたことを知り、祈り始めました。

ネヘミヤより先に、ユダの地に帰った祭司エズラも、その土地でペルシャ王のために働く人々の中に、主なる神とユダの民を敵とする者がいること、その人々が王に送る手紙のせいで再建が進まないことを悲しみ、祈っていました。

彼らは、絶望しませんでした。今あるのが荒廃した都と神殿でも、先に帰った仲間たちが悲しんでいても、故郷には敵がいて神とイスラエルを憎み、邪魔をしていても。自分は捕囚の地でペルシャ王に信頼され王の世話役として仕え、帰れる見込みがほとんど無くても。

 神は祈りを聞いて下さいました。アルタクセルクセス王はネヘミヤの悲しみに気づき、

帰国の願いを聞いてくれました。好意的な王の態度に、祈りが聞かれた確信を持ったネヘミヤは、王にエルサレムへの通行手形と、再建のための資材をペルシャの森林管理官から手に入れる許可を要求し、この願いも聞き届けられました。

 エルサレムで様子を見たネヘミヤは、門や城壁の調査を夜、少ない人数で行ないました。ネヘミヤは、仲間にも知らせずに調査を行いました。再建に反対している人たちを刺激せず、邪魔されず、仲間の悲しみに惑わされずに現実を確認するためでした。

破壊はたいへん進んでいました。けれど、ネヘミヤは力を落としはしませんでした。

主は、ここまで彼を守って下さった。主は王の心を動かしてネヘミヤをペルシャから旅立たせ、不可能と思われたエルサレムへの旅も守られ、夜中を選んだとはいえ、再建計画のための現場調査も行うことが出来たのです。

 荒れ果てた神の都を見たネヘミヤたちは、神の民として、荒れ果てた都、

破壊された神殿を恥じて悲しみました。イスラエルの神の都は壊滅した。彼らは自分の神が侮辱されても無視する人たち神の宮が荒廃を心に留めない人々だ。

最も大切にし第一とすべき神への真心を、疑われて当然の自分たち。

「御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。」再建を邪魔され続けて来た人々の前で、ネヘミヤは決意を語り、ユダの人々や祭司たち、貴族たちや工事に携わる人々は、希望をもって宣言するネヘミヤの言葉に奮い立ちます。ネヘミヤ記は再建されていく城壁と完成される神殿の様子を描きます。

その神殿で礼拝する人々は、モーセの律法によってもう一度、神を礼拝する民として

立ち上がらせて頂きました。祈りを聞いて下さる神の業に期待したのです。

信じれば神の栄光が見られる。イエスがマルタたちに叫んだ希望を、ネヘミヤたちは与えられていました。「わたしは復活であり、命である」と言われた方の力は、死と滅びを乗り越える力です。命は神から来る。主は与え主は取られる方。マルタとマリアの不信仰と絶望に憤られた方は、ご自身も十字架の死と葬りから復活し、生きて天に昇られた方です。

世界を覆っている悲しみ怖れは、ラザロを葬ったマルタを絶望に縛り付けていた力と同じように、私たちの足を止めさせ、気力を失わせます。

イエスはラザロに「出て来なさい」と大声で叫ばれ、ラザロは出てきました。

兄弟の死の悲しみに覆われて救いの希望を失っていたマルタたちに、イエスはラザロを死から命へ呼び返し、目から涙をぬぐって栄光を見せて下さる方です。

ラザロの手足は布で巻かれ、顔は覆いで包まれていました。

「ほどいてやって、行かせなさい」主は祈りを聞き、私たちを解き放って下さいます。

荒廃したエルサレムで、与えられた信仰によってネヘミヤは「建て直そう」と、

ユダの人々に語りました。私たちも土台を、イエスという永遠の岩に据えましょう。

「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は決して死ぬことはない。」私たちは主イエスと共に復活の命に与る者。祈り礼拝する民。

死と絶望から呼び戻され、神の宮としてもう一度、建て直された者です。

お祈りいたします。