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「救いの掟」

 

 ヨハネの手紙第1は、神の掟を守るなら、神を知っている、と言います。そして、きょうの詩編98篇は、主が救いの御業を成し遂げられた、と言って賛美しています。

詩編98篇をヨハネの手紙と共に読むと、まるで、「神の掟を守れ」と指導され、結果、

救われた!と喜んでいるように見えてしまいます。詩編は旧約聖書で古いものなのに。

ヨハネは、自分が手紙に書く掟は古く、初めからあるもので、あなたがたが既に聞いたことがある言葉だ、と言います。あなたがたはすでに知っているが、私は新しい教えとして書いている。それは真実なのだ。この世も、世にあるものも愛するな。それはやがて消えてしまう、儚いものだから、と。

「神を知っている」と言っても掟を守らないなら、その人は真実ではない。

「光りの中にいる」と言いながら兄弟を憎むなら、その人は闇の中にいる。

「神の内にいる」と言うなら、イエスと同じように歩まなければならない、と言うのです。

真実ではない人は闇の中にいて、見えないから、自分がどこに行くかわからないのだ。と。

私たちの不安を煽っているように感じます。

でも、私たちをこの世に生れさせ、この世で生かして下さっているのは神様です。

神がこの世に私たちを置いたのです。置いて下さったのに愛するな、ですか?

この世が悪いところなのなら、最初から天国に置いて下さればいいのに。世が汚れていて、闇の中だと言うのなら、世ではなく神の光のあふれる、神の内に置いて下さればいいのに。

2章の初めから、ヨハネは自分が手紙を書いている理由をいくつか、言っています。

あなたがたが、罪を犯さないようになるため。あなたがたの罪は赦されているから。あなたがたははじめから存在する、天の父を知っているから。あなたがたが強く、あなたがたの内に神の言葉があり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったから、手紙を書いている。

 あなたがたは打ち勝った。それが真実なら、なぜ私たちは不安なのでしょう。

罪を犯さないようになれるのでしょうか?

 きょうの詩編98篇は、アイザック・ワッツがクリスマスの有名な讃美歌

「もろびとこぞりて Joy to the world」を作詞する時、旧約聖書テキストとした箇所です。

この詩編は、主は御業を成し遂げられた。救いの御業を果たされた、という言葉で始まります。すでに救われた人、光の中を歩む人の賛美です。

ヨハネの手紙第1を読んだ私たちには、すでに目的地に居る人の賛美のように見えます。

私たちは、キリストを信じる者として教会に集います。教会には十字架のしるしがあり、

世界中、どこに行ってもこのしるしのある所で、イエス・キリストとその教えが聖書によって語られていることを、だれもが知っています。

98篇は、主は来られると言います。地を裁くために。世界とそこに住むものを正しく公平に裁くために来られる。もう、喜ぶしかないでしょう!何故って、主は救いを示された!

大自然に、海にも世界にも海の潮にも山々にも、喜びの声を上げよ、と言います。とどろき、手を打ち鳴らし、共に喜び歌え、と言います。主の恵みの御業はすべての国々の民の

目に見えている。すべての人は神の救いの御業を見たのだから!

 世の初め、最初の人アダムが園から追放されて以来、人々は救いの御業、赦しの恵みを

願い、求め続けて来ました。選び出されたイスラエルの歴史と歩みが聖書に書かれたことで、私たちは主に従い、主の御顔を仰ぐ生き方を、主なる神が求めておられることを知りました。神の御心に背く者が裁かれ、神に従わない者が苦しむ様を教えられて来ました。

神を信じる者として兄弟と呼び姉妹と呼ぶ関係が、お互いの顔色を見て、本心は何だろう?と疑う関係だとしたら、悲しいことです。イエス様と同じように、愛さなくちゃ。受け入れなくちゃ。皆、真面目なのです。一生懸命なのです。でも、「しなくちゃ」は「しないからダメ」に繋がってしまいやすいのが、私たち人間の弱い所です。裁き合う関係は憎しみを生み、結局は私たちを神から引き離し、闇の中から出ていくことができなくなってしまいます。ヨハネは第一の手紙で兄弟を憎む者は神の光の中にいない、と書きました。

私たちの目に神は見えない。見えないから、自分がどこにいて、どこに行く者か知らない。判らないから、私たちは不安なのです。不安だから、目に見える美しいもの、豊かなものに憧れるのです。安心したいから。でも、残念なことに、悲しいことに、

世と世にあるものは過ぎ去るのです。消えてしまう。限りがある終わりがあるのです。

 神は世にある美しいもの、豊かなものに憧れる心を私たちに下さいました。

太陽の光も、空の美しさも、神を見ることのできない私たち人のために、神がご自身の存在を感じられるように、見せて下さっているのです。人間が自然の美しさに感動して、

神を賛美するのは当然のことです。ただ、その自然が神なのだ、と見間違えてしまうのが

人間の悲しい所です。

 詩編98篇は、主は御業を成し遂げられた、と賛美しました。

詩編の記者はイエスの十字架と復活を知りませんが、主なる神が神の主の民イスラエルを

愛し慈しむ方であることを知っています。

そして主イエスは約束通りこの世に生れ、私たちは主なる神が、キリストの十字架と復活によって私たちの罪を癒し、神の国に至る祝福が与えられたことを知っています。

私たちは主イエスによって悪に打ち勝ち、罪を赦され、主イエスと共にあって強い者、

光の中を歩む者なのです。 

 神が創られた世界の美しさは、神の恵みの現れです。神が私たちに見せて下さる美しいものを楽しみ、喜ぶことは良いことです。自然の美しさをだけでなく、私たち自身に与えられている、きょうの命を喜びましょう。神が創られた世界で与えられたもの、与えられた経験に神のご計画と祝福を見る力は、私たちに与えられた神を知る力です。

主イエスの救いによって、罪の掟から解放された私たちに与えられた、神の内を歩む力。

この力によって生きる私たちに神の掟が働いているのです。

キリストの救いによって、私たちが神を知り、神を信じる力が与えられました。

主イエス・キリストの十字架による救いを喜ぶ力。救いの掟を守る力です。

お祈りいたします。