· 

「霊を注ぐ」

 

 2章の1節は五旬節の日が来て、と始まっています。1旬とは10日間。イスラエルでは過ぎ越しの祭りから数えて10日ごとに儀式を行っていました。主イエスは過ぎ越しの祭りの晩餐の後に捕らえられ十字架で死なれ3日後に復活され、約40日間地上で人々に姿を現されました。40日の間、復活したイエスから励まされ、エルサレムで待つように言われた人々は、イエスを天へと見送りました。彼らの人数は120人。集まっていたのは、イエスが最後の晩餐をされた家だそうです。広い家ですね。彼らはこの日も祈っていました。

 ペンテコステとは、50日目 という意味で、五旬節のことです。

キリスト教ではこの日に聖霊が降臨されたため、ペンテコステ=聖霊降臨祭です。

まず、激しい風の吹いてくる音が聞こえ、祈りのため集まった家いっぱいに響きました。

音に驚いた人々の目の前に、炎のような舌が現れ皆の上に留まりました。炎のような舌。

舌には、ギリシア語にも英語にも、言葉 言語という意味があります。

 激しい風の音も、一人一人が急に力強く話し始めた声も、家の外まで聞えたのでしょう。

120人もの人に激しく降った聖霊は、彼らに力強く語らせたので、エルサレムにいた人々は驚きました。ちょうど五旬節の祝いで、エルサレムには地中海沿岸のいろいろな国の人々が集まっていて、この部屋にいた人たちが話す言葉は、彼らの故郷の言葉、知っている理解できる言葉でした。

あまりにも急に起こった騒ぎに驚いた人たちの中には、この家ではきっと酒盛りが行われているのだ、この人たちは酔っぱらっているのだ、と言って、彼らの話す言葉を聞こうとしない人もいました。そんな人々に、ペトロたち12人の弟子たちが立ち上がりました。

聖書の中で、時刻がはっきり書かれている箇所は珍しいです。聖霊は朝の九時に降った。

ペトロは言いました。こんな朝から酒盛りはしない、この人たちは酔っぱらってはいない。

エルサレムに、祭りのために集まっている人たちがよく知っている、預言者の書が実現したのだ。預言者ヨエルが書いていた通りになったのだ、と。

 きょうの旧約聖書は、そのヨエル書から読んで頂きました。

ヨエル書2章には、イスラエルの回復の希望が書かれています。

23節にある秋の雨、春の雨はカナン地方の冬、乾燥したこの地方に降る、雨季の雨の

ことです。ユダヤでは1年は雨季と乾季に分かれ、11月ころ穀物の収穫が行われます。

収穫後の乾いた大地は、1月ごろにまとまった雨:秋の雨が降ります。潤され準備の整った地面に、人々は種をまき、3月から4月ころに降る春の雨 これは後の雨 とも呼ばれる、その潤いで植物は育つのです。

 現代も、いなごによる食害は世界の特に大陸で時折、聞かれます。いなごは大軍を成して

雲のように飛び、大陸間を移動することさえあります。飛来したいなごはその土地の植物を喰い尽し、卵を産み、孵った若いいなごは残っていた植物の若芽を喰ってその土地を荒らし、また飛んで行きます。ヨエル書は1章にもいなごの被害を書いています。これは

イスラエルが度々、被害を受けていたことだけを書いたのではなく、彼らの国、彼らの土地を度々、蹂躙した外国の軍隊を、いなごの大軍に喩えて書いているのです。

国は攻め込まれ、犠牲者を出し、働ける者や有力者は捕囚となって外国に連れていかれ、

まるでいなごに荒らされた畑のようなありさま。彼らは、収穫を望めない乾ききった大地のように痛めつけられました。

 ヨエルは、そんな彼らに回復を預言したのです。お前たちは豊かに食べて飽き足りる。

主なる神の民は、もはや永遠に恥を受けることはない、と。

神は彼らに食べ飽きるほどの収穫を約束されただけでなく、ご自身の霊をすべての人に注ぐと約束されました。あなたたちは虐げられて希望を失っていたが預言する。主の霊を受けて人々に主の言葉を預かり語るようになる。年をとっても諦めることなく夢を見る。

若者は幻を、将来にヴィジョンを持つ、と。

 3章3節にある血と火と煙の柱。血は十字架によって、火はペンテコステの聖霊によって

実現しました。主イエスが十字架で苦しまれた時、真昼に太陽は隠され、全地は闇に覆われました。天の神と地の上の人々の間で、救い主は血を流し、十字架は血の柱となりました。

このしるしによって、人々は救いを得たのです。十字架によって罪は癒され、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。その希望の約束が成立しました。

 ペンテコステに降られた聖霊によって、乾いた大地を潤す大雨のように地上に命と力が

注がれました。多くの国の人々が聞いた言葉は、バベルの塔を建てようとした人々が、

全地にそれぞれの言葉を与えられて散らされた、裁きからの回復の意味も持ちます。

聖霊が語らせる言葉は、聞いた人々は懐かしく故郷の言葉を聞きました。

彼らは彼らが理解した言葉を、自分の国の言葉と考えました。でもこれは、

もしかしたら、天の神の国の言葉、人類すべての真の故郷の言葉だったかもしれません。

 私たちはいま、信仰を与えられて教会に連なる者とされています。

まだ信仰を持っていない時、教会で語られる言葉は私たちにとって、意味の解らない音でしか無かったかもしれません。でも、風の吹いてくる音で120人があつまる家がいっぱいになったように、神の言葉は私たちに吹いてきました。そしてあるとき、炎の舌が留まるように、私たちの魂に、福音の火が灯り、神への感謝と喜びの言葉が私たちに与えられました。

 私たちの人生にはまだまだ、いなごのように希望も信仰も、喰い荒らすものが次々に

やってきます。いま世界でなかなか消えない戦争の火も、世界中で起こる自然災害も、

私たちを怯えさせる疫病も。でも、主イエスはすでに世に勝ち、私たちは神の国に至る永遠の命の約束を頂いています。ペンテコステに与えられた激しい大雨のような、聖霊の降臨によって、私たちは命の霊を受けました。痛めつけられたイスラエルに、主がヨエルの預言によって約束された時が来ているのです。

地上に撒かれた種が後の雨によって豊かに育つように、聖霊は今も、私たちの人生に新しい緑の芽を育てて下さいます。そして今も、聖霊なる神は私たちと共に居て下さいます。

 

お祈りいたします。