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「柔和で謙遜」

 

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

この言葉を掲げる教会は沢山あります。この言葉を拠り所としている方は沢山います。でも、

私ははじめて教会でこの言葉を読んだ時、反感を持ちました。クリスチャンが一人もいない家庭で育った私は、教会で神と聞いて、いろいろな宗教の神のうちの一人と思いました。イエスは人だと思っていました。だから週報の今週の黙想に載せた「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」を初めて読んで「何様?」と思ったのです。

 イエスはご自身が柔和で謙遜であることを人々がご自分を信頼する確かな根拠にしています。

柔和とは?辞書では「やさしく穏やかでものやわらかであること」とあります。

イエスのやさしさ、穏やかさはどこからくるのでしょう。

11章27節で、すべてのことは父からわたしに任せられています。と言われます。

全知全能の神を信頼し、その神から。天地の主である方を、イエスはよく、深く知っている。

イエスはご自分が主なる神に信頼されていることを知っているので、ご自分に自信を持ち、

全ての人を受け入れるやさしさを持つことができる。そして、神の御心に適うことが行われていると知っているので、イエスはおだやかでいられるのです。

とげとげしく、疑いや迷いを持つ必要が無いのです。

では、謙遜とは?辞書では「へりくだること。控え目でつつましい態度をとること」とあります。聖書でイエス・キリストが神の子、救い主であると学ぶと、このへりくだり こそ、

イエスの尊さの大切な要素であることがわかります。

フィリピの信徒への手紙に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と、あります。イエスは神が、ご計画(みこころ)によりご自分を選んだと知っているから、

へりくだる 神を敬ってイエス自身、控え目でつつましく居られるのです。

あの時の私に、言いたいと思います。あなたの考えは土台が違う。スタートラインが違う。

イエス・キリストの父なる神は、沢山いる神々の1人じゃない。神はただ一人。

天地万物を造り、独り子イエスを遣わし、すべてのイエスを信じる者にご自身の霊を注ぐ神は、最大・最強・最高の方。この方が味方について、イエスにその生涯と役割を与えたのだ、と。

 きょうお読み頂いたイザヤ書6章。イザヤは1章から5章で「災いだ」と言い続けました。

神を悪と言う人々、罪深い国、自分の役割を捨てて嘘と欲にまみれた人々を次々と指摘し、

嘆いてきたイザヤが、今度は自分自身を「災いだ。わたしは滅ぼされる」と言うのです。

イザヤは幻を見ました。主なる神の御座で、神の御衣が神殿いっぱいに広がって満ちている。

これは天の神殿と地上の神殿を神の栄光が結び合わされ、天でも地でも神のご栄光が満ち溢れていることを現わしています。天使セラフィムは飛び交いながら主を讃えて叫び交わしました。

セラフィムは炎の蛇とも呼ばれる天使です。神の栄光が輝き、神の炎が蛇のようにゆらめく、

その様子を表すものです。

イザヤは、聖なる神の御座の幻を見て、突然、はっきりと自覚し嘆きました。

自分は唇の汚れた者だ。滅びて当然だ。自分は唇の汚れた民で、神を罵る人々の中に住む者だ。滅びて当然だ。こんな滅びて当然の自分が、万軍の主である王を自分の目で見てしまった!自分はお終いだ。滅びてしまう、と。

この幻を見たのはウジヤ王が死んだ年でした。これまで、イザヤは神の言葉を王に伝える、

国民に伝えるための預言者でした。仕えて来た王が死に、イザヤはこの幻を示されたのです。

地上の王よりも高く聖い方。天地を栄光で満たす、偉大な尊い方。全てのものの上に立つ、

真の王である神の前で、イザヤは自分自身の小ささ、弱さ、汚れを示されました。恐れ、ひれ伏すしかない。神の前で汚れた自分に絶望するイザヤに、神はセラフィムの1人を遣わしました。

神の前で燃えさかる聖い炎。その中で燃やされている炭を神の天使が取り出し、イザヤの口に触れました。神の火によって、取り出された燃える炭によってイザヤの汚れは清められ、

神はイザヤが罪赦され清められた、と宣言されました。

 神の炎は神の御心を、神の存在を現わしています。汚れも罪も、その炎の前に存在することができない聖い方。本来ならば罪ある者たちは、その炎に焼かれ滅ぼされてしまう存在です。

神は炎の中から燃える火を 炭を、取り出してイザヤの罪を焼き清めるために用いられました。

神の炎から、人の罪を清めるために取り出された火は、救い主イエス・キリストを表します。

イエスは神として居られたところから地上に遣わされ、私たちの罪を清めて下さいました。

清められた人の所に、神はご自身の霊を炎のように注がれ、地上に神の教会が始まりました。

滅びて当然だった私たちは、神の燃える火によって清められました。

イザヤが神の声を聞き「わたしを遣わして下さい」と言った。この時、

イザヤはイスラエルの王に仕える預言者から、真の王である主に仕える神の預言者として

遣わされる者となったのです。

 イエスは、地上を清める炎として私たちの罪を清めて下さいました。神の前から取り出され、世の罪を取り除く方として来られたイエス。

私たちはこの世で生きる辛さ、命を守ることの難しさを感じながら生きています。

イエスは私たちに、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」と言われました。「荷を下ろしてから来なさい」ではなく。苦しみ悩む、そのままでいいのです。

イエスが柔和で謙遜と言うのは、ご自分が信頼に足る、確かな土台だと宣言する言葉なのです。

 イエスはわたしの軛を負い、わたしに学びなさい、と言われます。軛とは農作業や物を運ぶ、

2頭の牛の首をつなぐ器具です。繋がれた2頭は足並みをそろえなくてはなりません。

どちらかが早く強く進むと、軛は2頭の首を傷つけ、絞めて苦しめてしまいます。

イエスは私たちを休ませ、一人で負う荷物ではなく、わたしの軛を負え、と言われます。

わたしの軛は負いやすい、と。主は私たちと歩みを合わせ、私たちが進む道を私たちと共に居て下さいます。とげとげしく争うのではなく、やさしくものやわらかに 穏やかに。

私たちの歩む力を下さる、命を与える方は、天も地も、その栄光で満たす清い大いなる方です。

へりくだりましょう。主の前につつましくありましょう。

そして、疲れ重荷を負う自分自身のまま、主の前に出ましょう。

主が私たちを休ませ、共に軛を負われます。ずっと、共に居て、共に歩いて下さいます。

お祈りいたします。