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「立ち返り生きよ」

 

 唯一の神、全能の神を知らない人々に、パウロは出会いました。

パウロが渡った現代でいうギリシア地方には、彼らの信じる神を知る人がほとんどいませんでした。アテネにはギリシアの神々の像がいっぱい。ギリシアも、日本と同じ汎神論の国。パウロにはギリシアは美しい美術品に溢れた土地、とは思えませんでした。

ユダヤ人の律法が禁じた偶像礼拝に溺れ、汚れた罪深い土地。パウロは憤慨しました。

町の広場で彼は、哲学者たちと討論しました。町の人たちはパウロに興味を持ちました。珍しい奇妙な話を聞かせてくれるおしゃべりな男だ。彼らはパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行きました。そこは現代のテレビやインターネットの画面のように、人びとが気軽に新しいことを聞く場所、娯楽の場でした。

アテネの人々は沢山の神々を持っていましたが、それでも「拝み忘れている神が居るかも知れない」と考えて「知られざる神に」という像を立てていました。それを見たパウロは、気づいたのです。アテネの人々には信仰心がある。

でも彼らは真の神、全知全能の神を知らないのだ、と。

パウロはこの町の人々に話しかけました。あなた方が知らずに拝んでいる神をお知らせしましょう。世界とその中の万物を造った神です。神は人の手で造った神殿に住む方ではありません。天地の主です。神はすべての民族をそれぞれの場所に住ませ、

境界 境目を決め、季節を決めました。

 パウロが人々の語った民族と居住地の堺目は、場所に関する、人の物理的存在に関する事です。また、季節とは時間に関する事です。

神は私たち人に、それぞれの場所と、生きる時間を与えられました。

場所と時間。これは、神が人に与えた限界です。「自分はここにいる」と知ることは、

「ここ以外にはいない」ということ。「自分は今、2021年6月に生きている」ということは、自分の知らない時代がある、ということに気づくきっかけとなります。

旧約聖書に「神は人に永遠を思う心を与えられた」とあります。

人は、自分自身が時間にも場所にも限界がある存在だと知って、

その限界の向こうを見る、自分の限界の先を考える心を与えられているのです。時間にも

場所にも縛られない永遠なる方。人は全知全能なる神に憧れる心を与えられています。

アテネの人たちは、その憧れを神の像として造りました。

場所と時間 人の限界を与えたのは、人に神を求めさせるため。彼らが探し求めさえすれば、神を見出すことができるように、神は人に命も、すべてをも与えたのです。

 きょう読んでいただいた旧約聖書で神は私たちに、立ち帰って生きよと言われます。

エゼキエルの時代の考え方では、それぞれその家、その親が悪人なら、子も親と同じく

悪人、正しい人はその人も子も正しい。先祖の行いは子孫に影響する、とされていました。これは現代にもある考え方です。

いま、世界中の人が同じ種類の病気で苦しみ、その感染を恐れています。この病気が、神からの裁きや罰であると考える人がいるのです。

何か悪いことがあると、日ごろの行いが悪いから、優しく正しい生き方ができなかったから、罰が当たった、という考え方は、昔からあります。

今日の箇所で神は恐ろしく厳しいと思うのは、22節と24節にある「思い起こされることなく」という言葉です。悪人がすべての過ちから離れ、主の掟を守り正義と恵みの業を行うなら、彼の悪人であった時の背きの罪は「思い起こされることはない」ことは、感謝です。

でも、正しい人が正しさを離れ、不正と忌まわしい行為をするなら、彼が過去に行った正義は「思い起こされることはない」。主なる神は過去を思い起こすことなく、その人がいま、

行っていることに応じてその人に命を与え、また死を与える。ここを見ると、やはり神は

裁く方、罰を与える方だと思ってしまいます。悪人が裁かれず、正しい人が苦労するのを見たイスラエルは「主の道は正しくない」と言いました。

 正義と恵みの業を行うなら。正義と恵み、不正や忌まわしさは、自分と他の人 他者がいて成り立ちます。不正や悪は他者の利益や幸せを考えず、むしろ他の人に害を与えますが、正義とは公平で正しいこと。恵みとは他者から受けて幸福や利益をもたらすこと。

自分以外が安心して幸せに居られることを望むなら、そこに不正や悪は入れません。

何をしたら、何をしなかったら、正しい、と認めてもらえるのか。

何をしたら、何をしなかったら、死なないで生きることができるのか。主はエゼキエルに、わたしは悪人の死を喜ばない。彼が立ち帰って生きることを喜ぶ、と言われました。

悪いから死ぬ、正しいから生きる、ではない。主は裁きを望んではおられないのです。

人の言い伝えや、行ない次第で裁きが決まる因果応報のように、周りと自分を見比べ、

緊張して生きるのではなく、神の目 命を与えて下さる方の御心を思いましょう。

「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主は言われました。

1人の人からすべての民族を造り出した方は、私たちに生きる場所と時を、

限界を与えて ご自分の無限で全能なご存在を示される方。この方が世に遣わした、たった一人の救い主の、たった一度の十字架によって、私たちを罪から清め、救い、

主の復活によって死を超えた、私たちが憧れる永遠を約束して下さったのです。

 アテネの人々には神が死ぬ、死者が復活する、という新しい神の姿は、理解できない奇妙過ぎる戯言のように聞こえました。確かに、人間の時の中、人間が生きている場所で、死んだ人が生き返る。限界ある人間が、神の家族となって永遠の命を持つようになる。

これは、ありえない奇跡です。

でも、時を 季節を定められたのは、全能の神、場所を 国や民族の境を決められたのは

永遠なる神です。

神は、私たちが神を求めるよう永遠への思いを与えられました。

神は私たちのすぐ近くに居るために、私たち人にご自身の霊を注がれる方。

探し求める者に、ご自身を示し、「立ち帰り生きよ」と言われます。

この方が、真の神。私たちを生きるようにして下さる、命の主です。

お祈りいたします。