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「手のひらに刻む」

 

 神は「わたしがあなたを忘れることはけっして無い!」と言いました。

絶対に忘れない、という思いで「たとえ子どもを産んだ女が自分の子を忘れる、ということがあったとしても、決して忘れない。わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻み付ける」と言われました。

大切なこと、大切な人、大切な予定を忘れてしまわないように、私たちは小さな紙きれや手帳に書き込み、スマホが文字や音で注意してくれるよう設定します。それでも、書いたメモを無くした!貼っておいた場所が判らない!などなど、私たちの失敗は繰り返されます。

メモは無くす。そう言って、自分の手に書き込んでいた人が居ました。手のひら、手首、

手の甲まで。書類を手渡す左手はびっしりと文字で埋まっていました。でも、つい洗って

消してしまう。油性ペンでも、やがて消えてしまう、と言っていました。

主は手に「書く」ではなく「刻み付ける」と言われました。

 ダビデ王、ソロモン王の時代、王国は繁栄し、主なる神は主の掟を守り聞き従うなら、

あなたの国は続き、主の祝福はあなたから離れることは無い、と約束しておられました。

けれども、王の妃たちが持ち込んだ主なる神以外の神が、国の一致を乱し、王の後継者問題をきっかけに国は分裂しました。

イスラエル12部族のうち10部族が属した北イスラエルは、主に従わない王が治める国となり、やがてアッシリアに負け、都サマリアは陥落し人々は捕囚となりました。

さらに100年余り後、イスラエルの残りの2部族ユダとベニヤミンの王国南ユダはバビロンに滅ぼされ、人々はバビロン捕囚となりました。

イザヤ書は回復の約束を伝え続けています。49章は、戦いで荒れた都シオン=エルサレムを神の民の母に喩え、嘆く声に、主が応えるかたちで書かれています。

確かにこの時、エルサレムは再建されてはいません。彼らは抵抗する間もなく滅ぼされ、

捕囚になった民はまだ、戻っていません。でも主はシオンに、あなたを建て直す者は、

あなたを破壊した者よりも速やかに来る、と言われました。

 現代人の目で歴史を見ると北イスラエルを滅ぼしたアッシリアは、バビロンに滅ぼされ、

南ユダをも滅ぼしたバビロンは、やがてペルシャに滅ぼされます。

破壊する者たちはやがて去る、と主は言われます。シオンよ、あなたの子らは集められ、

あなたのところに来る、と。イスラエル王国は滅ぼされました。でも、主は民を滅ぼしはしなかったのです。

 主はシオンに、あなたは花嫁のように、あなたの子らを身にまとう、と言われました。

子沢山の母親に、子どもたちが抱き着く様子を、花嫁の豪華な衣装に喩えたのです。

子どもが飾り?と思うかもしれませんが、花嫁衣裳は豪華なほど、着ている本人は動きにくいものです。子どもを失った。もう産み育てることもできない、と嘆く母にとって、

身動きできないほどに子ども達がまとわりつくとは、思いがけない幸せでしょう。

 主が手を上げると、イスラエルは散らされた国の人々によって連れて来られる。

それも、捕囚になった時とは違い、ふところに抱き、背負って大切に連れ帰られる。

諸国の王たち、王妃たちが彼らの養父母となり、あなたにひれ伏すようになる。

王がひれ伏す。想像を超えた変化です。事実、やがて子どもたち=イスラエルの民は、

ペルシャ王の助けを得、主の約束の地に帰ります。彼らを捕らえていた国は、帰って行く

彼らに、ペルシャの王は神殿再建、エルサレム再建のために資材も提供してくれる、

思いがけない回復の時が来ます。捕囚の間、彼らは自分たちの律法を学び、バラバラになっていた律法と歴史の書をまとめました。彼らの国は一旦、滅びましたが、民は再び集められ、捕囚先でも主の言葉を持ち続けたシオンの子らは、やがて国を再建しました。

 ユダヤの民を呼び戻された神は、主イエスによってご自身が人に与えた命を、教えて下さいました。マタイ6章に書かれている、「何をたべよう何を飲もう」「何を着よう」という人々の悩みは、現代人にしばしば間違って理解されます。

イエスと共にいた人々は、現代の私たちよりもずっと、貧しいのです。

食べるにも着るにも沢山の中で、どれがより健康的か、と迷う私たちとは違うのです。

イエスの周りにいた人々は、きょう、自分たちの食べる物を手に入れることができるか、

不安でした。美しさや心地よさで衣服を選ぶのではなく、体を守るため。

彼らの悩みは選び取る悩みではなく、命を守るための悩みでした。

自分のため、家族のため、いま、私たちはイエスの時代と同じような悩みを持つ、厳しい時を経験しています。

 主はイスラエルに、わたしは生きている、と言われました。

いま、日本の教会は数を減らしています。「昔は今よりも沢山、教会に集まっていた。」

「昔の教会学校は子どもたちであふれていた」と言って、以前の活き活きした教会が戻って来て、回復することを望む声が、どの教会でも聞かれます。

私たちは主に造られた者。私たち自身には命を造り出す力はありません。命を与える方は、

主なる神 お一人です。主は命を与えるだけでなく、空の鳥にも野の花にも、そして私たちにも、必要なものを知る方。力ある方です。

明日、炉に投げ入れられる花を、今日、美しく飾って下さる方に、昔の祝福をもう一度、

求めるのではなく、主が行って下さる、今、私たちに必要な御業を求める者でありたいと思います。私たちには、明日がどんな日になるか、わからないのですから。

悩むよりも、私たちは喜ぶべきです。私たちは私たちの事を心配して下さる方を知っているのです。主イエスが言われたように、天の父は私たちの必要をご存知なのですから。

私たちを神の国に呼び集めて下さる神が共に居て下さることを、私たちも覚えましょう。

神の義を、神が私たちに望む生き方ができる力を、主に求めていきましょう。

主は私たちを決して忘れない神。

ご自身の手のひらに、刻み付ける、と言って下さる方です。

お祈りいたします。