· 

「魂を主に向けて」

 

 すべての人のために、願いと祈りと執り成しと感謝をささげなさい。

これはパウロが弟子テモテに、まず第一にしなさいと教えたことです。神から良いとされること、神が喜んで下さることだから。王様だから、政府の高官だから、偉い人で権力があるから祈らなくていい、なんてことは無い。とりなす相手を選ばずに祈りなさい。

神が何よりも望んでおられるのは、すべての人が救われて真理を知るようになることです。

では、何を祈ればよいのでしょう?すべての人のために神に願うことは、どんなこと?

どんなことを執り成し、祈ったらよいのでしょう。感謝しなさい、とは何をどんな時に?

 その答えのひとつが、詩編143篇にあります。

この詩編そのものが祈りです。祈るこの人は、「祈りを聞いて下さい。私に答えて下さい」と願い、裁かないで下さいと願います。神の前に正しいものは、「命あるもの」の中にいません。神の裁きに耐えることはできません、と言い切っています。

彼には敵がいるのです。彼の魂を追い詰め、彼の命を痛めつけ踏みにじるのです。

闇に閉ざされた国と書いてあるのは、罪を悔い改めることなく死んだ者が行くとされる、

陰府の国。2度と主なる神の前に出ることのない、永遠の死に定められるのです。

魂は裁かれ、滅びに定められるのです。

この人は自分の魂も、敵によって永遠の死の国に住む運命に堕とされようとしている、

と主に叫んでいます。敵の攻撃で彼の霊は疲れ果て力を失い、萎れてしまっていました。

彼の心は元気を失って立ち上がれず、身動きできなくなっています。

敵とは、誰でしょう。

私たちが日常、経験する困難と言えば、病気や事故、災害などによる危険です。

仕事や財産管理など、私たちの生活を困難にする経済的な問題です。

また、同じ時間、同じように生活する友と家族と仲間と、心が行き違い、感情が行違う人間関係が私たちの困難となります。私たちは病気や事故を恐れ、何とか予防しようとします。仕事上の問題も、金銭問題も、私たちを悩ませ苦しめます。でも、危険や問題や困難が私たちを傷つけ弱らせても、私たちの魂を滅ぼすことはありません。

敵とは、誰でしょう。

 主イエスはマタイによる福音書で、口に入るものではなく、口から出てくるものが人を汚す、と言われました。弟子たちが手を洗わないで食事をしたのを見た人たちから、

彼らは先祖からの掟を破る汚れた人たちだ、と批判されたのです。手を洗わないで食事を

することは、不潔で病気の原因になる可能性はあります。でもこれは健康の問題であって、魂の問題ではありません。健康や安全、経済や人間関係を、魂の問題にすり替えて人を批判する言葉。口から出てくるその言葉が、人を汚すのです。

イエスは口から出てくるものは、心から出てくる、と言われました。

心から出てくるもの。

人を批判し、詩編143篇の詩人が主に助けを求めた、人の魂を弱らせ、

永遠の滅びの国に閉じ込めようとするもの。悪を生み出すもの。

敵とは人の罪です。人を永遠の死に追いやる罪の力から、助け出して下さいと

彼は叫ぶのです。

彼は両手を伸ばし、広げます。両腕を伸ばし広げると、人間は背中を伸ばし、顔を上げることになります。腕を下から上へ上げて広げる。前から横へと広げる。

どちらの動きでも、人の体の前は開き、胸は 肺は広がります。そして、

体の中に沢山の空気が入ってきます。私たちは新鮮な空気を体にとり込み、

下を向いていた顔も、前から上へと向いていきます。

体が前向きになり、体と心が元気になると、彼は沢山の事を思い出しました。

きょうまでの人生、主が彼のために下さった恵み一つ一つ。彼は思い起こします。

神が自分の人生で行われた御業を。恵まれた記憶、導いて下さった主の御手の確かさの記憶は、彼を立ち上がらせます。彼は手を広げ、立ち上がり、顔を上げ、主に祈ります。

143篇9節から12節は、彼が依り頼み、憧れて止まない主にむけた、7つのお願いごとです。敵から助け出して下さい。神の御心に適った行いの方法を教えて下さい。

神の霊によって、私を安心して生きられるよう導いて下さい。私に滅びることのない命を

与えて下さい。私の魂を災いから引き離して下さい。敵を絶やして下さい。

そして、私の魂を苦しめるものを、滅ぼして下さい。

 143篇の初めから終わりまで、詩人は神に願い求め続けます。祈りを聞いて下さい。

答えて下さい。聞かせて下さい。教えて下さい。どんどん要求を続け、遠慮がありません。

願い続ける彼は、その理由を今日の詩編の最後の1行で言います。

わたしはあなたの僕なのですから。と。  神と人の関係は、こういうものなのです。

神はすべてを造り、すべてを生かす方。私たちは主なる神に仕えます。それは、

神が働かなくて済むように、かわりに私たちがすべての神の業を行う、のではありません。

私たちは神の力が無ければ、何もできないものです。

神の力をいただき、神から命と働きを与えられて生きる。それが神に仕えることなのです。

 パウロは第一に勧めました。すべての人のため願い、祈り、執り成し、感謝しなさいと。

救い主イエス・キリストは、すべての人を罪から贖うため神から遣わされ、ご自身を十字架で献げられました。詩編143篇が「安らかな地に導いて下さい」と祈り願ったように、

私たちも平穏で落ち着いた生活を送ることを願い求めています。

主イエスの十字架によって、人を汚す罪は滅ぼされました。主は私たちの魂を滅びから引き出して下さいました。ですから、私たちは願い、祈り、すべての人のために執り成し、

主が行って下さったすべての御業に感謝するのです。

神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられるのですから。

お祈りいたします。