岩の上の家と、砂の上の家。教会学校でよく使われる、主イエスのたとえ話です。
この砂とは、川底のこと。イスラエルにはワディと呼ばれるは枯れた川があり「増水時ここまで水没」という標識があるそうです。日本の海岸や川沿いにも、海からの高さ:海抜が
電信柱などに書かれています。ワディは乾季には水は一滴も無く乾燥しています。雨季の雨はかなりの水量になるそうです。ワディに家があれば押し流され、酷い結果になります。
日本でも高いビルを建てる時、地中深くにある岩盤に届く柱を基礎に建てます。
柱が岩まで届いていることが必要です。
雨にも風にも強い岩の上の家のように、しっかりと倒れない信仰を持つ人は、主の言葉を聞き主の御心を行う人と主イエスは言われました。神の言葉を聞く、神の御心を行うとは?
詩編119篇は、主の掟を守り、主の道を歩む人は幸いである、と何度も書かれます。
その道を照らす光、歩みを照らす光が、神のみ言葉だ、と105節にあります。
119篇は聖書全体の中で、1つの章の長さが最も長い。「節」が3桁になる書物はありません。聖書通読で毎日1章 読もう、と決心した人が挫折する難関です。
篇全体を通して同じテーマが何度も、繰り返して出てきます。
わたしは誓ったことを果たします。わたしはとこしえに従って行きます。
これは自分の行動について、決意と意欲を宣言しています。また、
わたしは正しい裁きを守ります。 あなたの掟を行うことに心を傾けます。
これは、この人が何を信じるか。信仰がどこにあるかを言い表した言葉です。
そしてこの人の魂がどこにいるか。この人が何を拠り所として立つのかを表す
言葉があります。それは、
109節わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。と、もう一つ。
111節あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。という言葉。
この2つの言葉が、詩人の魂の居場所の座標を現わしています。
まず、「魂はわたしの手に置かれている」
命を与えるのも取り去るのも神の業です。神が私たちを造り、魂と人格を持つ者、
神と対話する者として下さいました。与えられた命をどう生きるか。魂をどこに向けるか。その決断は私たちに任されています。神は私たちを無理やりご自分の信徒とはしません。
神か神以外か。選ぶのは私たちです。 119篇の詩人は、その責任が自分にあること。
魂が自分の手にあることを知っています。「嗣業」とは、相続財産のことです。土地や家。
私たちは自分が手に入れた財産を死んでも持ち続けることはできません。その財産は子や
家族・親族など法的に権利がある人のものになります。相続人は自分の努力や働きの結果としてではなく、手に入れます。 詩人は神の掟が、自分の相続財産だと言います。
掟、というと厳しい戒めや法律のようで有り難くないものに見えますが、「神の掟」には、
人が守らなければならない戒律だけでなく、神が人にした約束も含まれます。
107節にあるように、御言葉の通り命を与える方、それが神です。
私たちは神が遣わされた救い主を知っています。この方が、私たちの罪のために十字架に架かって死に、滅びを身に受けて下さり私たちは救われました。私たちは神の民。
それは私たちに、神から見て特別な良い所、素敵な性質があったから、ではありません。
主イエスの十字架による救いは、私たちの嗣業。私たちに天から与えられた財産です。
一般的に、相続財産は、相続する・しないを判断する必要があります。相続は義務ではなく、権利です。相続の権利は受け取る自由も手放す自由もあるのです。
神の掟を相続財産と喩えるなら、この嗣業も相続放棄はありうるのでしょうか?
はい。あります。 魂は常にわたしの手に あるのですから。わたしの手にあるわたしの魂に責任を持ち、神の掟を嗣業として受け取る。それが詩人の魂の居場所です。
私たち自身、詩人と同じく、自分の魂を手に置き、神の掟の相続権を与えられています。
イエスの言葉を聞き行動しても、神の御心を考えないなら。たとえ病気の人に奇跡を
癒しを行う力を与えられ、その病が癒やされても、「その人の病を癒すために神が用いて下さった」のであって、神の御心に適ったとはいえないのです。
神の言葉を伝える働きをしていても、相手から何か利益を得るためだったら。
自分が有名になるためだったら。
聖書の中には、サタンが聖書の言葉を引用してイエスに話しかけた、と書いてあります。 目的が違っていたら、良い実を結ぶことは無いのです。
「羊の皮を着た狼」という言葉はよく使われます。
狼であること以上に、羊の皮を被っていることは恐ろしい。悪い実を結ぶ木は切り倒され、火に投げ込まれる。詩編119篇130節に「御言葉が開かれると光が射し出で無知な者にも理解を与える」とあります。マタイが書いた狼は、本人もその言葉を聞いた者も共に滅ぼす恐ろしく深い罪を犯しています。
聖書は神の救いの御業を伝える神の言葉 御言葉の書。
神の言葉が持つ光から人々を引き離す罪は、神の裁きを受けます。
自分自身も含めて、神の言葉と私たちの間を隔てるものに、注意を払いたいと思います。
子どもの頃私の家は少し傾いていました。柱の1本が短かく、基礎の石との間に隙間が
あったのです。そこはある方向に物が転がる部屋。子どもが飛び跳ねたら揺れる部屋でした。柱が基礎の石に届かないので、支えられなかったのです。
私たちそれぞれの手に置かれた自分の魂。家を建てる場所が岩の上か、砂の上か。
居場所を選ぶ責任は私たちに任されています。雨にも風にも揺れ動かされることのない
確かさは、岩の上にきちんと隙間なく届く柱があればこそ。
主が支えて下さると信じているから。 わたしは誓ったことを果たします。わたしはとこしえに従って行きます。と言える。わたしは正しい裁きを守ります。 あなたの掟を行うことに心を傾けます。と宣言できるのです。
御言葉の光を遠ざけるのではなく、その輝きを受けて歩きましょう。その力は大きい。
御言葉から受ける恵みで自分を支え守りましょう。いま、必要な力です。
御言葉の光で、居場所を確認しましょう。私たちの信仰を岩の上に据えるために。
お祈りいたします。
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