神様が私たちを造られたのなら、私たちが罪を犯さないようにして下さればよいのに。
キリスト教を知らない人に聖書の話をすると、時々こんな言葉が返ってきます。
いま世界で流行している病気についても、天罰や神の裁きという考え方をする人がいます。 神と人がどんな関係にあるか、解っていない人が多いのです。
日本には沢山の色々な働きをする神々がいると言われています。キリスト教の神と日本の神々は、大きく違います。日本の神はそれぞれの居場所があるそうです。土地を守り生活を
豊かにする神々だと言われます。季節の実りや仕事の前に祭りがあり、ご神体が神輿に載り、氏子たちによって町々を巡ります。守り神は怒る神であり罰を当てる神とも言われます。
触らぬ神に祟りなし と言うように日常、祭りのハレの日以外は社の中です。
聖書の神、天地万物を創造された神は、いつも共にいる神です。私たちを愛し、私たちを
見守り、いつどこに居ても私たちの祈りと賛美を聞いていて下さる方です。
聖書の時代のユダヤ人たちは、自分たちは神に選ばれた民という自信を民族の誇りにして
きました。パウロもユダヤ人。彼も自分は神の友アブラハムの子孫だ神の子だ、と教えられ
育ったのです。パウロはもとファリサイ派の学者で聖書を深く学んでいます。
イエス・キリストを救い主として受け入れた彼は、ユダヤ人たちの自信や誇りが正確では
ない、と知っていました。確かに神はアブラハムに、あなたの子孫にイスラエルの王が生まれると約束され、イエスはアブラハムの子孫として誕生しました。アブラハムもイサクも、
ヤコブ:のちのイスラエルも、神から「あなたの子孫は神の民となりわたしは彼らの神となる」という約束を頂きました。けれど、例えばヤコブの兄エサウはエドム人の先祖となりました。アブラハム・イサク・ヤコブの子孫がみんな神の民 ではなく、神がご自分の民に選ばれたから、神の民なのです。
また、たとえばエジプトの王ファラオは、神が全世界に御力を表すために用いられた、と
書いてあります。彼らはエジプトを出て行ったイスラエル人の後ろで、海に沈みました。
人間を神が造られた。ある人は神に愛され、ある人は滅びる。神は勝手だ。どうせ人は神に逆らうことなんてできないのに。パウロの前でも、神を罵った人が居たのかもしれません。
私たちも聞くことがありますし、時には考えてしまうかもしれません。神様が愛だと言うのなら、なぜこんな残酷なことが起こるのか。戦争も病も貧困も事故も無くならないのか、と。
きょう、今週の黙想に選んだ9章20節はそんな私たちへの答えです。
:神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
起きていないことではなく、すでに起きていることに気づいて下さい。造られた私たちが神よりも多くを知るわけがないのです。私たちは命を与えられ、生活する場を与えられています。
私は元気だけれど、あの人は苦しんでいる。だから神は厳しく不公平だ。そう言って神を
批判する前に、与えられている今を感謝しましょう。なぜ?と疑い、失ったものや
降りかかりそうな不幸を数えるのではなく、
すでに与えられている小さな喜びや平安を数えましょう。
神は私たちを造られた。それは私たちを愛し憐れみ、神の子と呼ぶためなのです。
甥っ子が小さい時、「ほら、お父さん帰って来たよ」と言われ「お父しゃん、お父しゃん」と言いながら嬉しそうに父親めがけて走って行きました。
子どもが小さい時「お母さん、お母さん」とあたりかまわず話しかけられた思い出のある親は多いでしょう。1人でいる時と親が一緒の時、子どもたちの表情は全く違います。
不安は親がいない事。安心は親がいること。手を引かれて歩いている子どもたちは足元も気にしません。周りをきょろきょろ見ています。自分の手を取る親を完全に信頼しているのです。
親がなぜ彼らを守るのか。心配するのか。それは子どもだから。小さいから可愛いから
愛しているから、という前に、子どもだからですよね。
神は私たちを子と呼んで下さる。独り子イエスを身代わりにするほど、私たちを愛して
下さる天地創造の神は、小さな子どものように疑いなく「神さま」と語り掛け祈る、
私たちの声を待っていて下さいます。
私たちは何のために造られたのでしょう?きょうの詩編に、神の創造の目的が書いてあります。主を賛美するために。主の御名を唱え、主を賛美し、主に仕えるために。
民は創造された。諸国の民、世界中から集められる、と。
旧約聖書に書かれた民の苦しみとして、捕囚となり神の約束の地から引き離された人のことがよく出てきます。この詩編でもシオンつまりエルサレムの都のある土地を憐れんで下さい、
シオンの石が慕わしいとあるのも捕囚の悲しみ、捕われ人にはその意味もあるでしょう。
でも、死に定められているのは私たちも同じ。人の一生の時間には限りがあります。
時間、という制約の中に捕らわれている。その点では私たちも同じです。
主を賛美する・御名を唱える・主に仕える。私たちはそのために創造された。
私たちはどう生きればよいのでしょう?どうすれば主の栄光が示されるのでしょう?
主イエスは「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。ローマの信徒への手紙でパウロも「あなたたちは神の子と呼ばれる」と言いました。神の栄光を表す。それは、信じた私たちが何か、天国のような穏やかな光や香りを放つようになる、という意味ではありません。
栄光とは神がそこに居て下さることで現れる、神の存在感であり御力です。
イエスは山の上の教えで「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と言われました。神の子として、万全の信頼で主なる神に祈り、神が下さった恵みを思って生きる時、私たちと神との関係は私たちと他の人との関係にも影響してゆくのです。
子どもが親に話しかける時のように、詩編の言葉のように主よ聞いて下さい、と心のままに主に祈りましょう。まず自分が主から受けた恵みを思い出しては感謝する。その繰り返しは
私たちと主なる神をさらにさらに近づけ、強く結びつけます。
子として愛し聞いていて下さる方を喜びましょう。主が共に居て下さるのです。
お祈りいたします。
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