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「主を知ろう」

 

 わたしたちは神にありのままに知られています。パウロはコリントの人々に言いました。

パウロは自分の事もありのままに知ってほしいと言いました。知ってほしい、と。

「主を知ることは知恵の初め。主を畏れることは知恵の初め」

旧約聖書の箴言に、聖書全体のテーマとしてそう書かれています。知る、という言葉を調べてみました。知る、とは心でとらえること。他と区別してその存在を認め、把握し、記憶し理解すること。経験し気づくこと。

 主はご自身を知らせるため、預言者ホセアに結婚を命じました。神はホセアの結婚生活を通して、ご自分がイスラエルにどのような思いをしておられるか語られたのです。

聖書の預言者たちの中でも、ホセアのような日常生活の試練を経験した人はいません。

ホセアの妻ゴメルは彼に3人の子を産みました。主は彼女のことを淫行の女と呼びました。

彼女は奔放で、家庭の中にも夫との関係にも落ち着くことのない女性でした。彼女はもと娼婦つまり売春婦でした。彼女は結婚しても、もとの生活を止めません。自分から出て行き、常に豊かさや楽しみを探し続けました。ちょうど、イスラエルが神から私の民と呼ばれても、バアルなど他の神々の礼拝や祭を行い、他の神に奉げものを続けていたように。

バアルはいわゆる農耕の神、五穀豊穣を与えるとされる神で、冬 乾季に死に、春に再生するとされていました。バアルの再生が畑の実りをもたらすと考えられていたので、そのために人々は祭りを行いました。生命の営みがバアルの再生の力になるとされ、儀式のために、神殿には娼婦がいました。ゴメルはその一人だったのです。

 イスラエルは季節を祝うバアルの宴会を楽しみ、決まった時に決まった捧げものをする祭のために、より多くの犠牲の家畜や、自分の家族をバアル神殿の奴隷に差し出して豊かさを手に入れようとしました。太陽の動きや月の満ち欠けに合わせて儀式を行うことが豊かさを生むとして、バアルの祭は行われました。が、当然、私たちが知っているように、畑の実りも雨も月の動きも、バアルではなく主なる神が創造され、御手によって動かしていて下さるものです。主の恵みの業であって、バアルや他の神々によるものでも、まじないに依るものでもありません。

命を与えるのは主なる神。全てのものを造り出した方を離れて、命も実りもありません。

彼女は犠牲を払い捧げものをし、バアルに仕えて愛を手に入れることはできませんでした。ホセアは傷ついた妻を見つけ出し、大金を払って彼女を買い、取り戻しました。

ホセアはゴメルに言ったのと同じように、イスラエルに語り掛けました。

さあ、主のもとに帰ろう、と。   主は彼らに言われたのです。

「わたしが喜ぶのは愛であって いけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」家畜や畑の実りなどの捧げものも、自分自身を奴隷として奉げるほどの奉仕も、神への熱意と信仰の現れとしては尊いものです。しかし、神は捧げものや犠牲によって、恵の量を変える方ではありません。犠牲を捧げたかどうかで天国の門が開くかどうか決まる、ということはありません。捧げものは、私たちの罪の赦しのための犠牲は、

すでに捧げられました。主から離れた私たちが傷つき、引き裂かれ、打たれるのを主は見ておられた。癒し、二日の後 生かし三日目に立ち上がらせて下さる。

これは主イエスの十字架と死、滅びを受けて陰府に降り、やがて復活され生きて墓を出られた、あの贖いと救いの業を現わしています。主の十字架と復活によって、

私たちは罪赦され、主のみ前に生きる者となりました。

 ホセアが主に示されたイスラエルの癒し。主から離れ、創造者ではない命のない神に向っていたイスラエルとホセアの妻ゴメル。彼らの心に、主は大雨のように豊かな救いと恵みを与えて下さいました。乾ききった大地が、種を受け止める命の力を、大雨によって再び得るように。そして、生き返った大地で蒔かれた種を育てる柔らかな雨のように、主は恵みを

与え育てて下さいます。

 主がすでに犠牲を払って下さった。神は私たちが罪を犯し、ご自分から離れて命を失っていたことを、主の方から赦し、癒し、ご自身の所へもう一度、呼び戻して下さったのです。

神の御業を知らなかった時も、主は私たちに、命と働く力、実りを与えて下さっていました。私たちはすべて、自分の努力や働きの成果だとか、ラッキーな運だと考えていましたが、すべて主が創り出し、与えて下さっていたのです。

主を認めずバアルを追いかけ続けたゴメルのように、私たちは主と和解し再び主と共に

生きる道が必要でした。主イエスの十字架はその道を与えるものです。

 和解の道は開かれました。この道をすでに、信じた私たちは歩いています。この道があることを、まだ知らない人たちに知らせるために、和解の使者としての任務が私たちに与えられています。イエスが打たれ、引き裂かれ、命を懸けて与えて下さった恵みの道を、知らない人がいる。そんな勿体ないこと!知らせるべきです。

そして、私たち自身も、もっと知るべきです。神の子である救い主イエス・キリストが、

私たちのかわりに死に、滅びを受け止めて下さった。私たちはキリストと共に死んで、新しい神の子の命を生きている。確かに私たちは救われました。でもまだ経験値は足りない。

もっともっと、気付いて、分かって、知見を得て、さらに。知るべきこと、記憶すべきことは、沢山あります。主を知りましょう。主イエスの命を生きるのです。

生きて、私たちに与えられた一生を通して、知ること。確かにそうだと認め感じ取って、

理解し、経験しましょう。主を知るとは、主のために生きることです。

お祈りいたします。