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「神の霊が語る」

 

 エレミヤ書1章で主なる神は「わたしはあなたが母の胎内で造る前から、聖別し諸国民の預言者として立てた」とエレミヤに直接、声をかけました。ユダ王国の祭司の子エレミヤ。

イスラエル王国は南と北に分裂し、この時代、すでに北イスラエルはアッシリアに負けサマリアは陥落しています。南のユダ王国で彼は預言者として神の言葉を民に語り続けました。

 預言者なら、神の言葉を聞いた民が悔い改め立ち帰ることを望みます。

神に従う人々と共に、神の都エルサレムの繫栄を見ることを願います。

けれど、彼に神が与えた言葉は民を裁く「不法だ!暴力だ!」という言葉ばかり。

民は彼の言葉を受け入れません。厳しい裁きを伝える神から離れて他の神々を礼拝しています。自分たちを叱らず裁かない神々。自分たちを救うこともできない神々を。

でも、エレミヤは語ることを止められません。主の言葉を聞かないまま、同胞が滅びることに彼が耐えられない。その衝動を主が与えられ、彼の中で燃え立つのです。

 主がエレミヤに語らせたのは、ユダ王国にある主の神殿やエルサレムが破壊され、

ユダ王国が滅びる、という言葉。バビロン王国の脅威から、主が奇跡で助けて下さるかもしれない、と人々は期待し、エレミヤにそのために主に願ってくれと頼みます。

でも、エレミヤが語る主の言葉は彼らの願いとは正反対でした。

主はエレミヤに、バビロン王ネブカドレツァルに従え、と言わせたのです。

バビロン王に従え。捕囚となり国を離れなくてはならないけれど命は助かる。主は彼らを生かされ、育てられ、やがて回復させて下さる。従わずに国に残れば、主は彼らをバビロン王の手によって滅ぼす。人々はエレミヤの言葉を受け入れません。神の民が滅ぶ、と預言する預言者なんて!と笑いものにし、彼を嘲りました。

あなたたちを遣わすのは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、ヘビのように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。主イエスはこう言って、

弟子たちの中から選んだ12人を遣わしました。イエスの言葉は、できれば行きたくない、と思うほうが普通だと思うようなことばかりです。 

これから神の国の福音を伝えよう、と思っているのに、とても危険。警戒しなさい、と

言われたら、恐ろしくて声が出なくなりそうです。

さらにイエスは、あなたたちは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる。と言います。

現代の日本の制度で言うと、都議会や県議会、国会に連れていかれるよ。

地方自治体や国や、全国の教会があなたの敵になるよ、と言っているのです。

イエス・キリストを信じ神に仕えているあなたたちは、すべての人に憎まれるようになる。

エレミヤと同じかそれ以上に、恐ろしい立場になる。

12弟子にとっても聖書を読む私たちにも、少しも嬉しいところがない。

 弟子たちにとって、驚く恐ろしい言葉でした。歴史を知る私たちは、イエスが言われたような立場にいた人を知っています。その立場の先輩たちを知っています。

江戸時代の少し前、日本でキリスト教は禁教になり多くのクリスチャンが迫害されました。

信仰を守る「隠れキリシタン」は、国の目にも家族の目にも警戒して生きていました。

日本だけでなく現代も、キリスト教信仰を持つことが命の危険に直結する立場にいる人たちがいます。戦争中、多くの伝道者や神父、牧師が投獄されました。

私の友人の祖父は巣鴨拘置所で2年近く過ごし、チフスに罹って治療も受けらず、なんとか終戦まで生き延びました。こうして、歴史の中で主イエスの言葉は実現しました。

主は苦しまれた。主イエスは民が待ち望んだ救い主であるのに、主は捕まり、罵られ、罪人として処刑され葬られ裁きの身代わりとして陰府に降られた。主の苦しみを知っていたから、困難の中でも人々は信じて従ったのです。

 最後まで耐え忍ぶ者は救われる、と言われた主イエスは、それでも1つの町で迫害されたら、他の町へ逃げて行きなさい、と言われました。逃げていい。福音は語り続けなさい。

パウロも迫害や妨害を受けました。使徒言行録18章にパウロが幻の内に聞いた言葉があります。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。」

主は恐れるな、と言われるのは、実は人にとって恐ろしくて当然の時だからです。

何を言ったらいいのか。どう話したらいいのか。何を言うべきなのか。恐れているからこそ、言葉はみつからない。主イエスは私たちではなく父なる神の霊が語る、と言います。

「私たち話は下手だけど、言葉は聖霊が下さる。聖霊様が傍に居て教えてくれる」

のではなく、語るのは聖霊の業。聖霊のおしごと。私たちは行け、と言われた所に行く。

すると、私たちを通して聖霊が語って下さる、のです。

 いま、こうして牧師として遣わされています。私を通して語る、と言って下さる主の言葉は嬉しいのですが、器が小さく不完全で申し訳ない、と思います。けれど、選び遣わして下さったのも主なる神。全知全能の神が責任を持って下さることを、心から感謝しています。

毎週、語ることができていること、それ自体が奇跡だと思っています。

 エレミヤの時代、人々は王国と神殿の存続を望んでいましたが、彼らの願いや理想は実現しませんでした。イスラエルもユダも戦いに負け、人々は故郷から引き離されました。

約束の地から遠ざけられ、ユダヤ人たちにも異邦人たちにも、イスラエルは滅亡したように見えました。しかし、エレミヤを通して主が語られたように、国や神殿の破壊は滅亡ではなく、ユダヤ人たちは生き延び、やがて彼らは約束の地に戻り、神殿も再建されました。

 人が滅びと思う時は滅びではなく、神が働かれる時です。

主イエスの十字架と復活の後、迫害され散らされたクリスチャンたちを通して、父なる神の霊は語り続け、世界中に信仰と教会は広がって行きました。

 私たちは困難に会うと恐れ、立ち止まります。マタイによる福音書10章39節でイエスは「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」と言われました。どんな困難の中でも朝は来ます。

主の業は止まることはありません。心配することはありません。

主の霊が私たちの中で語って下さいます。

お祈りいたします。