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「変えられる」

 

 死者の復活。これはキリスト教の中でも難しい教えの一つです。

パウロがこの手紙を書いたころ、ギリシアの沿岸の町コリントはすでに、歴史ある古い町でした。ローマにも近い都会で、文化的で知識豊かな人たちが住んでいました。この町の

教会の人たちも現代の私たちと同じように、死者の復活はわからない、難しい教えでした。

 イエス・キリストの十字架と復活によって、あなたたちは救われた。コリントの人たちはこの教えを聞き、自分たちは救われたと信じたのです。現代の私たちもそうですが、

信じたとは、すべて理解した、ということではありません。理解できないけど受け入れた。

神は福音を受け容れ、信じた人たちを神の子として家族として受け入れて下さるのです。

 コリントの教会の中に、死者の復活なんて無いと言う人がいました。理解できないから、そんなことは無い。信じられない。そう言う人たちをパウロは「愚かな人だ」と言います。死者の復活は無い。もしそれが正しいなら、キリストの復活も無いことになる。

キリストの復活が無いなら、イエスは今も死んだままになり、私たちの信仰も、伝道・宣教の活動も無駄で無意味なことになります。死者の復活とは何でしょう。

十字架にかかる前にイエスは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままで

ある。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と言われました。

蒔かれた種が土の中で一旦、朽ちて分解され、新しい植物の芽が出ます。同じように、

地上の体が朽ちて、新しい天の体に復活するのです。

蒔かれる、やがて朽ちてしまう死ぬべきものの特徴が書かれています。

卑しいもの、弱いもの、自然の命。これはすべて、神が天地創造と共に造り出した「人」が持っている性質。いま生きている私たちと同じ、最初の人アダムの性質です。

命ある肉と血を持つ地上の体。この体のままでは、神の国を受け継ぐことはできません。

だから、この体が「蒔かれ」今とは異なるものに変えられなくてはならないのです。

そして、私たちがやがて与えられる朽ちない天上の体は、輝かしく力強い霊の体です。

これは復活したキリストが神から与えられた性質です。

天地創造と共に造り出されたアダムは土の塵から造られ、

神から命の息を与えられ命あるものとなり、最初の人アダムは全人類の祖先となりました。

パウロは「最後のアダム」が命を与える霊となった、と書きました。

最後のアダムとは誰でしょう。最後のアダムとは、死んで葬られ復活し再び生きる者となった、救い主イエス・キリストです。最後のアダムは、霊の体を持つ神の国を受け継ぐ者たちの中で最初の人となりました。イエス・キリストは死んで蘇りました。

すでに一度、死んでいます。もう二度と死ぬことのない復活の命を生きておられます。

天の国に入るために、イエス・キリストと同じにならなければならないなら、

私たちも主イエスと同じように十字架で死んで、葬られなくてはならないのでしょうか?

いいえ。イエスの十字架は全人類の罪のためのただ一度です。そして、完了しています。 

いままでの死ぬべき性質、罪ある肉の性質が変えられる。だったら、この汚れた問題だらけの自分自身を完全に捨てて、全く新しく清らかな神のような体と性質を受けることができるのか、と期待します。私たちの人生も人類の歴史も、清く神の御心に適っているとは言えません。今までの人類の歴史を考えても、汚れた神の国に相応しくない罪深いものです。

パウロは、私たちに与えられる「朽ちないもの」の性質は、私たちが「着る」ことによって与えられる、と言います。私は「着る」という表現が好きではありませんでした。

不完全で不足だらけの自分なんて、洗い流してきれいさっぱりさせて欲しいと思って。

けれど、神のご計画は「完全に捨てて清らか」になることではありませんでした。

人を創造する材料に、神は鉄でもダイヤモンドでもなく土を用いられました。

出来上がった人を見て、全能の神は「極めて良い」と言われたのです。

神の国に相応しい、霊の体を与えられる時にも、主はそれまでの私たちを否定されません。。十字架によって罪赦された私たちの、弱さも卑しさもそのまま、受け入れて下さいます。

新しい朽ちない霊の体を「着せて」下さることで、私たちに朽ちない命と力と、

神の子の栄光を与えて下さるのです。

 きょうの旧約の箇所は新しく王として即位したダビデ王の子ソロモンに、主が夢で語り掛けられた時の記事です。ソロモンは賢く知恵ある王として有名です。

今日の箇所のあとに出てくる話は、日本で「大岡越前」という小説で、江戸町奉行の賢さを表す逸話に使われています。

主なる神はソロモンに「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われ彼は3つ願いました。一つ目は神の民を裁く知恵。二つ目は善と悪を判断する力。三つ目は聞き分ける心、つまり神の御心を行う知恵を。自分の命や政権の長続きも、富も、敵の命や滅亡も願いませんでした。彼は忠実だった父ダビデの位を引き継ぐ者として選ばれた感謝と決意を、

神の前に述べました。神は彼の願いを喜び、

もしソロモンが主の掟と戒めを守って主の道を歩むならば、

彼の願いを聞き、加えて富と長寿と栄光をも約束されました。ソロモンは主の神殿を建て、王国は繁栄を極めます。ソロモンの知恵と呼ばれる箴言に「無知な者は知恵をも諭しをも侮る」とあります。11章 老いたソロモンは、多くの外国出身の妻たちと持ち込まれた外国の神々に迷い、主の戒めを捨てました。イスラエル王国は彼の死後に分裂。

やがて王国の民は捕囚となり苦しみの時代を迎えます。

 主はソロモンの願いを聞いた時と同じく、私たちに朽ちることの無い天の国と霊の体を約束されました。主が「着せて」下さる復活の体によって、私たちが永遠に死に打ち勝つ者となる。死が主に在る勝利に完全に飲み込まれ、私たちも復活のキリストと同じように、

神の国を受け継ぐ者となる。私たちには主によって変えられる、約束があるのです。

ソロモンが受けたと同じく、私たちにも主は立つべき場所を示して下さっています。

きょうの黙想の箇所にもある、約束です。

わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、

主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。 

忠実に主の戒めを捨てず、主と共に歩みましょう。主は私たちを変えられる。

神の国も神の掟も朽ちることは無いように、神の約束も、朽ちることはありません。

感謝しお祈りいたします。