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「だれが救われるのか」

 

 「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」この人はイエスに、

「善い先生」と話しかけたと、マルコやルカも書いています。

イエスは「善い方はおひとり」神以外に善い方はいないと答えました。

永遠の命を得る。今の人生の終わりが来ても、裁かれ滅びてしまわないために、どうしたらいいのか。彼は「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい」という掟、モーセの十戒を守れと言うイエスに、

「そういうことはみな守ってきました」と答えました。「まだ何か、欠けているでしょうか」

イエスの弟子たちは、この青年は完全に見えました。律法をしっかり守り、慈善や奉仕を率先して行い、さらに永遠の命について学び続けている。弟子たちには、豊かで生活の

心配のないこの人は、正しく、慈悲深く生きるための力を持っているように見えました。

イエスはこの人に、持ち物すべてを売り払って貧しい人々に施し、それから従って来なさいと言いました。彼には意外で受け入れられないイエスの言葉でした。

完全な正しい人、と思っていた彼は去って行き、イエスの「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という言葉を聞いて弟子たちは驚きました。

「それでは、だれが救われるのだろう」 

 この人が去ったのは、たくさんの財産を持っていたから、と、福音書は書いています。

持っているものを手放せず、かえって神の国に入れる恵みを手放してしまう。これは、残念なことです。 なぜ、彼は手放せなかったのか。なぜ彼は自分の欠けに気づかなかったのか。

 大人になり財産を、仕事や家庭の責任を持つようになると、それが如何に不安定で流動的か。守るために必死の努力が必要で、知恵も、胆力も、ある種の運動神経も必要なのだと

判ってきます。財産は、立ち並ぶ倉やお城や千両箱を意味しません。社会的立場や権力や、生き方を現わします。この価値を、この立場を知り、

財産を持つことが成功であると考えるとしたら。

旧約聖書ヨブ記1章21節で、一夜にして全財産を失ったヨブの「主は与え、主は奪う。

主の御名はほめたたえられよ」という言葉は、

まるで異次元の、理解できない、判らないものでしょう。

 きょう読んで頂いた、詩編119篇33~40節で、

詩人は掟に従う道、戒めに従う道に導いて下さい、と祈っています。そのために、

律法を理解させ、保たせて下さい。守りますと祈り、

不当な利益ではなく神の定めに心を傾けさせて下さい、と願います。また、

自分の眼差し 目線そのものを、主なる神の道に移動させて下さい、と祈るのです。

どんなに努力し、学び、必死になっても、その努力がやがて滅び、消えてしまうものに

向けられているなら。手に入れたものが空しい永遠に保つことのできないものなら。

その努力は天国の門を開き、入って行く力にはならないのです。

あの金持ちの青年は常に律法を守り、慈善事業に熱心でした。でも。彼の持つ能力、

財産の管理とそれによる社会的地位を維持するための知恵では、イエスから示された道、

彼が追い求め手に入れたいと願っていた永遠の命への道を選ぶことはできなかったのです。

詩人が言うように、永遠の命を得るのは主の恵みの御業によるのです。

人が行う「どんな善いこと」も、永遠の命を得る手段にはなりません。順番が違うのです。善いことをして永遠の命を得るのではなく、恵によって永遠の命を得させて下さった主の

御業をほめたたえて、喜びのあまり、善いことをせずにはいられないのです。

主の恵みの御業に感謝して奉仕する私たちを、主も喜んで下さり、善いこと主の御心に適う生き方ができるように、力をさらに与えて下さるのです。

 イエスは「神の国とその義を求めなさい」と言われました。また「子供のようになる人が、天の国でいちばん偉い」とも言われました。青年は素直に律法を守り生きていました。マタイによる福音書注解の著者ヘアは、彼が富の持つ力を手放せなかったことを

「彼は子供のようにならなければならないのに、年を取りすぎている。」と言いました。

彼がその知恵の限りを尽くして守って来た財産。その財産によって守っていた彼の家族、

彼の家の使用人への責任と、彼自身の権力。そこにあるのは、私たちも陥りやすい、

2つの価値観があります。仕事の価値観と、教会の価値観。今は教会と同じ価値観で考えることは難しいと、教会の事、神様の事を一旦、置いて、扉を閉じてしまう。

働いている自分、仕事をしている自分と、聖書を読む自分、教会に居る自分が、扉の向こうとこちらに分かれ、神様のことが心から消えてしまう。そんな私たちに、扉の向こうの神の国への道を歩く力を与えるために、イエス・キリストは十字架に架かられました。

神の子が人として死んで下さったのです。

 弟子たちにはあの青年は、自分たちよりも先を歩いているように見えました。でも、

弟子たちは彼が選ばなかった命の道を歩き始めていました。イエスの名のために、家・兄弟・姉妹・父・母・子供・畑を捨てた者に報いがあると主イエスは言われます。

「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい」という律法に反する教えのように見えます。でも、違います。イエスの名のために捨てるとは、この世のすべての心配事や責任を、神に委ねる、お任せすることなのです。

 天の神の国に私たちは行ったことがありません。経験のない旅の道は遠く感じます。  子供の頃、私たちは親に手を引かれ、行く先がどこかも知らずに楽しく歩いていました。 永遠の神の国への道はとても遠い。でも、その国から来た方が、まるで子供の手を引くように導いて下さるのです。心を入れ替え、この世の価値観を捨て、

子供のように主に手を引いて頂きましょう。

永遠の命は主が与えて下さいます。

お祈りいたします。